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カタツムリ、そこは大海原であったと(やっと)知る。

私は喋らない子供だった。家でもほとんど喋らず、幼稚園では全く喋らない子供だった。発達に問題があった訳では無いらしい。当時、親が心配して医者にも診せて調べたが、問題は無かったそうだ。私は ただ単に、自分が発した言葉に反応が返ってくることが極端に苦手な子供だった。

私には姉が2人いる。病気がちで手のかかる末っ子だった私を、母はなにかと甘やかした。その事に対して、姉たちには子供らしい嫉妬があったのだと思う。姉たちの前で喋ると、言葉の揚げ足を取られ揶揄われる事も多かった。私はたぶんプライドが高かった。揶揄われるくらいなら、なにも喋らない、喋りたくない、それで構わない、と思っていたのだ。そして何も喋らなくなった。そんなちょっと、いや、かなり偏屈な子供だった。

そんな私だったが、小学生になる頃には成長と共に少しずつ喋るようにはなり、思春期を過ぎたあたりからは、初対面や人前であっても普通に話せるくらいの社会性は身につけた。大人になってからは、むしろよく喋る人という印象も残すほどになったと思う。でも芯の部分では人見知りのままだし、今でも会話の受け手側の反応を気にしすぎて気持ちが萎縮してしまう癖がある。自分の言葉をとりあげられて注目されたり揶揄われるのは凄く苦手だ。

さて。
これは誤解を恐れずに書くのだが。

私は数ヶ月前にとあるnoteを書いて投稿した。

その私の書いた記事をnote 公式さまが「今日の注目記事」として取りあげてくださり、このようなPR呟きまでポストしてくださった。私はこれをみて、あわわわわわわわわわ…と怯え震えてしまった。

私はここ6年ほど趣味で推し活をしている。その推し活の一環として、ツイッター(現X)に入り浸っている。長いツイ活の成果で、気ごころの知れた推し仲間さん達がたくさん出来た。私は普段そこで、心を開いて気ままに呟きを流しているのだが、ごくたまにツイッターの字数範囲に収まらないような感想や考察を書きたいときにはnoteを利用していた。noteで長い文章を書き、その記事リンクをツイッターで仲良しさんに共有するというスタンスだった。私のnoteは自分のツイッター仲間くらいしか読まない…ぐらいに思い込んでいた。

だから、この思いがけない公式PRツイを目にして、泡を食ってしまった。抜粋されている文は、まごうことなき私が書いたものだ。そして、その文面には私の痛いオタク部分がくっきりハッキリと浮かび上がっていた。ち、ち、違うんです!!そ、そうじゃないんです!!と慌てた。いや違くないし、痛いオタクなのだけれども。 明らかに推し活の仲間ではなさそうな方からの反応のお知らせも届きだし、凄く狼狽えてしまった。とにかく恥ずかしかった。痛くてゴメンナサイと思った。カタツムリが殻の中に閉じこもるように、私の心が縮こまっていくのを感じた。こんな風になってしまう思考癖が、我ながら鬱陶しい。わかってる。でもどうしようもない。内弁慶の激強型で、幼児期には何年も喋らなかった人間なのだ、私は。根っこがそういう性分なのだ。

数日は自分が書いたnoteも直視する事が出来なかった。もう全て無かったことにしたいと思ったくらいだ。でも、しばらくすると、今度は文章が変テコではなかったかが凄く気になりはじめ、やっぱり確認しておこうと思い切って読み返した。

長い長い文章だった。7500文字以上もあった。原稿用紙で19枚分もある。こんなに語っている自分の事を我ながらキモい と感じた事はとりあえず横に置いておいて、改めてこんな長文を読んで下さった方々がいることに思いを馳せた。【好き】の数を眺め、この数字の一人一人が、私の書いた文章を好きだといってくれた意味を考えて胸がいっぱいになった。

正直、PRで抜粋された文面を読んだ瞬間は、笑える部分を切り取られて消費されたと感じた。ネットニュースと一緒だ。こういったものは引きの良い見出しが大事で、とくに下世話であったり滑稽だったり衝撃的であればあるほど、人々の目を引き、効率よくPVが稼げるらしい。私たちは、星の数ほどあるネット記事を全部読んだりなんてしない。とりあえず、さっとみた感じで見出しが面白そうなものをクリックして読んでいる。情報過多の消費社会とはそういうものだ。SNSやネットに何かを載せるという事は、その情報の海に餌を投げ込むようなものだ。それを私はちゃんとわかっていなかった。知ってはいたけれど、どこか自分ごとだとは思えていなかったし、ちょっと舐めていた。そしてこの件で、一丁前に、ちょっぴり傷ついちゃったのだ。馬鹿ね。

でも、改めて【好き】の数を見返し、たくさんの方が読んで下さった事実を実感していたら、少しずつ記事を紹介してもらえた有り難さを感じはじめた。また、情報の消費の先にあるものについて考えが及んだ。これは、エサとしてパクッといかれた後は、美味しかったから呑み込まれたのだよな。そして消化され、養分となって、その人の心や記憶に取り込まれたのだろうか。そんな風に考えたら、急に自分にも心当たりが浮かんだ。私もいつも気まぐれにネットの海を泳ぎ、面白そうな情報に食いつき、それを読んで、ときに笑ったり泣いたり感動したり、たまに生きるヒントをもらったりしていた。私自身が、そんな風にして散々と消費し、心の養分を得ていたくせに、今更、消費されて傷ついちゃったーとか、そりゃ無いわー。そう考えたら気持ちが少し軽くなって、心が殻の中から出てくるのを感じた。そーだよなー、と思った。自分は、この大海原の生態系のちっぽけな一部であり、そんな私の発した文章が、遠いどこかで誰かの心に小さな波を起こしたのだ。それってちょっと凄い事じゃないか。カタツムリの殻から首を伸ばして視線をあげて、改めて眺めたSNSの世界は大海原だった。

その昔、誰とも喋らず、いつも口を閉ざしていた子供だった私が人と喋るようになったのは、自分一人の閉じた世界が寂しくなったからだった。周りの子がお友達を作って楽しそうにしているのが羨ましくなったからだ。小さな“伝える”ことの積み重ねから、反応がかえってくる事が、悪いことばかりじゃないと少しずつ知った。自分を伝えることで誰かと繋がる事は、楽しくて嬉しい事で、たまに傷つく事があったとしても、それでも自分一人の世界よりもっと素敵だと知ったからだった。

あれから時が流れて、あの頃は想像もしていなかったSNS時代が到来している。広大に無限に拡がるネットの海で、私も微小な生き物として生きている。ちっぽけな私の中では、いつも感情や考えがポコポコと生まれている。この思考を言葉に溶かし、輪郭を与え文章にする作業は、簡単ではないけれど楽しい。この巨大な場所に、強く訴えたい何かがあるだとか、そんな大それた事ではぜんぜん無いが、自分の中にある小さな波のような思考や感情を文字にして流していくことも悪くないな。そしてそれが、遠くの誰かに伝わるのも素敵な事だよな と思えるようになった。そんな気持ちで、今もこのnoteを書いている。どこかで誰かに読んでもらえたら嬉しい。読んでくださりありがとう。【終わり】

蛇足:でも基本はカタツムリなので、ネットの塩水には気をつけていこうと思う。ほどほどでね。

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