いじめについて正面から考える(前編)
2013年にいじめ防止対策推進法ができて今年(2021年)で8年。
横浜創英の工藤勇一校長先生と、弁護士の真下麻理子さんのお話を聞ける機会がオンラインでありました。(リディラバ主催)
今回はその内容を踏まえて、いじめとその対応について考えていきたいと思います。
前編では「いじめの定義とコンセンサス」についてです。
「いじめ」の定義は?
現在のいじめの定義は
「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校(小学校、中学校、高等学校、中等教育学校及び特別支援学校)に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係にある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」
です。(2013年、平成18年より)
過去からの変遷を見てみましょう。びっくりしないでくださいよ〜。
【昭和61年度からの定義】
この調査において、「いじめ」とは、「①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているものであって、学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わないもの」とする。
【平成6年度からの定義】
この調査において、「いじめ」とは、「①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。」とする。
なお、個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと。
すごくないですか?
「自分より弱い者に対し」「一方的に」「継続的に」「深刻な」「学校としてその事実を確認しているもの」じゃないといじめと認知されなかったのですね。
ようやく、現行のものになり、小さいいじめの種を見つけよう、困っている子や苦しんでいる子を助けよう、という意味・調査の意図になったのです。
児童生徒が1回でも嫌だと思ったならば、
「ちょっとしたけんか」とか「ただのいざこざ」とか「じゃれ合い」とかでは済まされないということです。
いじめ認定です。
でも現場は…
しかし、学校現場では、ここのコンセンサスがうまく得られていないように思います。
いじめの基準が先生によってバラバラなのです。
たとえば、こんな事例。
Aさんは算数の問題がもう少しで解けそうで頑張っています。
そこに、すでに問題が解けたBさんが来て、解き方や答えをAさんに教えてあげました。
ところがAさんは泣き出してしまったのです。自力で解きたかったのに…もう少しでできそうだったのに…との思いから。
さあ、この事例、その場にいた先生だったとしたら、どのように判断し対応しますか?
そう、この事例はいじめの事例です。(文科省事例集より)
Bさんによるいじめだと判断できるでしょうか?
「Bさんも教えてあげたいっていう優しさだったのよ」なんてAさんに言ってしまいそうじゃないですか?
いじめはいじめた側が100%悪い、100:0だと頭ではわかっていても、
どこかで、お互いに謝って50:50で折り合いつけられたら、と日本ならではのいわゆる喧嘩両成敗的な考え方が浮かんできてしまうのです。
先生も、「自分で解決しなければ!」と思ってしまうし、
お互いに謝って解決させられた(したように見えた)から指導力がある!なんて思いがちではないでしょうか。
定義再確認からのコンセンサス
「いじめはないに越したことはない」
「それはいじめまでは行かないだろう」
「その子もよかれと思ってしたことだ(いじめではない)」
こんな言葉は学校現場ではまだよく聞かれるのが現実です。
だから、いじめの定義からもう一度、再確認してコンセンサスを図っていくことが必要です。
私が在籍する福島県教育センター教育相談チームでも、
今年から立ち上げた講座「いじめの理解と対応講座」で、
そのあたりから先生方と一緒に考えていこうと思っています。