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「苦しくて切ないすべての人たちへ」

なんだかずぅっと頭の中でぐるぐる思考していて、ちょっと苦しいなと思って、図書館でタイトルに惹かれて手に取った一冊。

この世には、自分の力ではどうしようもないことがある。そのことに苦しみ切なく感じても、「生きているだけで大仕事」と思ってやり過ごせばいい――。「仕方なく、適当に」「万事を休息せよ」「死んだ後のことは放っておけ」など、心の重荷を軽くする後ろ向き人生訓。死者を求め辺境の霊場を訪れる人々、逸話だらけの修行時代、よい宗教とわるい宗教、親ガチャや苦の正体――恐山の禅僧が“生老病死”に本音で寄り添う。

新潮新書 「苦しくて切ないすべての人たちへ」 
南 直哉 著
表紙裏より

お坊さんの書かれた本なので、あまっちょろい俗世間の考えに渇!を入れられてしまうような厳しい論調だったらどうしようなどと思っていたが、杞憂だった。
なんなら、読んでいてクスッとだったり、ぶはーっと吹き出してしまうようなお話もあったりで、一気に読み終えてしまった。

説法というより、落語を聞いているような気分になり、心の中にすぅっと言葉が染み込んでくる。

勘違いしてはいけないのは、葬式は生きている人が生きている人のためにやるものであって、死んだ者には関係がない。
そこに故人はいないのだから。
葬式の仕方は、お国柄、宗教宗派によって様々だが、その核心にある意味は一つだけである。それは、「〇〇さんは死んだ」と確定することである。この確定によって、それまでの「生者」は「死者」となり、我々と「死者の〇〇さん」との新しいご縁が始まるのだ。

新潮新書 「苦しくて切ないすべての人たちへ」 
南 直哉 著 
第五章 五 死んだ後のことは放っておけ より

亡くなってしまった大事な人たちに伝えたいことがあるときは、お墓参りに行く。
そうすると、不思議と伝わったような気がして、少しだけほっとするのだ。
理屈ではなくて、自分はそう感じているというだけだけど。
だから、本書のこの文章を読んで、「この世ではもう実体としては会うことは叶わないけど、新しいご縁ができたからまだ繫がっていられるんだ。」と思って、ほっとした。


 思うに、人は自分の生まれてくる理由も、目的も、意味も知らない。しかも、自分の存在は他人に一方的に決められる、いわば「お仕着せ」の自分である(体は他人製、名前=社会的人格は他人の決定)。
 したがって、いくら考えようと、「自分の命の大切さ」だの、「自分の生きる意味」だのを自力で発見できるわけがない。
 理由も目的も意味も知らず、ただ生まれて来ただけの無価値な存在(存在理由・目的・意味を持たない「価値」など、無い)が、「自分の大切さ」を感じることができるとすれば、それは自分以外の誰かに大切にされたからである。
 お仕着せの服を着る気になれるのは、似合うと褒められた時だけだ。
 「命の尊さ」が理解できるのは、「あなたが、ただそこにいてくれるだけで、私は嬉しい」と断言する者がいて、言われた人がそれを実感できた時だけである。
 それこそが「命の種」なのだ。
 「親」とは、それを無条件に言う人である。生んだ人ではない。生もうと生むまいと、「あなたがそこにいてくれるだけでいい」と断言し、そう「子」に実感させる者が「親」なのだ。 
 赤の他人も、これが言えれば、「子」の「親」であり、生んでもそれを実感させられなければ、「親」ではない。「命の種」を植えるのが「親」なのである。
 したがって、我々(「子」)は自分の存在に何ら責任は無い。責任は一方的に「親」にある。その自覚と、責任を負う覚悟が無ければ、人は「親」になってはいけない。
(中略)
本来、「子」は「親」と社会・国家から、無条件的に大切にされて当然なのである。
と言うよりも、「親子」を大切にするから、国家や社会の未来があるのだ。
国家や社会のために「親子」があるのではない。

新潮新書 「苦しくて切ないすべての人たちへ」  
南 直哉 著 
第五章 七 命の種「あなたがそこにいてくれるだけでいい」より


本書の最後の章を読んで、「苦しくて切ない」と思っていた、自分の中の子どもの部分が、優しく手当された気がした。

また、自分の子どもたちの「親」としての自覚と責任を改めて再定義し、これまでも省みながら、これからどうしていくことが最良なのか本質を見ていきながら、生きてる限りはコツコツと生きていきたいと思った。

それでも、「生きているだけで大仕事」なのだから、これまで関わってくれたいろんな人たちに感謝しつつ、自分のことも労ってあげたい。

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