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うつな私に優しく生きたい #4「心の病を抱えながら自立するということ」

かつて更新していたnoteシリーズを復活させてみようと思い、久しぶりに今回はうつな私に優しく生きたいシリーズを再び書いてみました。

はじめましての方も、いつもありがとうございますの方も、まずは、簡単な自己紹介から。

私は14歳のときに不登校を経験し、そのときに「適応障害」と診断されていますが、時代の変遷とともに病名や症状は変わってきていると自分では思っています。

パニック障害のように突発的な発作も起きて、不安障害のように心が真っ暗になるときもたくさんあって一概にこれひとつ!という病名には絞りきれないまま「現状維持」を常に目指して、薬を飲みながら体調を安定させようと日々努めています。

今回のテーマは「心の病を抱えながら自立する」です。精神疾患といっても度合いがあるので、全員が必ずしも当てはまるものではなく、あくまでも実体験をもとにこうしたら楽になった、こう考えたら自分らしく生きられるようになった、その道のりを今回は丁寧に綴ります。

家族を亡くし、バランスを崩した母と娘


心に何度も深い闇が訪れる。

家族を亡くしたあと、私たち親子はお互いに精神的なバランスを崩しました。もう二度と会えない現実を受け止めるのに4年以上はかかっています。そして母は次第に娘に対して自立するように促してきました。

母が言う「自立」は我が家の場合、結婚しなさい、孫を産みなさいではなく、すべて自分の責任のもと判断し、自分の足で人生を歩みなさいといった方向性の自立を求められました。つまり、判断を親に委ねることから卒業しなさいということです。

ところが4年前の当時は、父がいなくなったことだけで精一杯の日々。結婚しても一緒に歩いてくれるパパはもういないのかぁとか、どこか探したらまだいるんじゃないかとか、ふわふわと自分の魂さえも地に足が着いていない、少し危険な状態でした。

最初は小さな喧嘩だったはずなのに、やがて大きな衝突を起こすときもでてきて、そのたびに「助けて!」と言える人にはSOSをだして、そのたびにギリギリのラインを越えてきた経緯があります。

夫を亡くした妻の哀しみと父を亡くした娘の悲しみに決して優劣はつけられず、いつまで経ってもお互いに「自分の方がつらいんだ!」と主張する日々。

そんな日々は今、振り返ってみても半分、地獄のような、いつになったらこの負のサイクルを断ち切れるのか、私にはさっぱりわからないまま、とにかくほんとうの薬と時間薬を頼るしかなかったのです。

心の病を抱えながら自立するって、どういうこと?


atelier ERICA inc.のオフィスにて。

「普通」という言葉がこの世の中には存在します。

この普通はなにをもって普通なのか、その概念や判断基準は人それぞれで、生き方も人生も選択すべきライフスタイルも今となっては十人十色の時代に入りつつあります。

さて、精神疾患を抱えながら自立をするってどういうことなのだろうと問い続けてきた4年間。答えは、その道がたとえ茨の道であっても、もがいて、苦しんで、自分の形と感覚を築き上げていくしかないというのが私の答えです。

私の場合は結婚とイコールではなく、余計に、では、どうするべきなのかを考え続けました。

答えが結婚なら婚活をすると、スムーズに解決法について考えられた部分があったのかもしれませんが、そうではないとなると(しかも一生独身と決めたわけでもない)なおさら、自分の人生の形が四角なのか三角なのか、それは自分自身で答えをだしていくしかなかったのです。

精神疾患といっても人それぞれ置かれている状況は違うので、最終的には担当医と話し合ってどうするべきなのかを決めるのが一番でしょう。

私も担当医と話して、母とどのような関係を築くべきなのかは、たぶんこれまでの4年で一番深く話しています。

今は月に1回程度の受診で間に合いますが、ひどい時期は1週間に1回は行って、先生と話さないと精神状態がもたないときが何度もありました。

今、自立の道を歩みはじめて思うのは本人にしっかりといずれは自立しなければいけない、いつまでも親がそばにいるとは限らないその厳しい現実を受け止めようと努力していれば、ある日からふと腑に落ちるときが訪れます。1年後かもしれないし、5年後かもしれない。それは人によって適切なタイミングは異なります。

私の場合は精神疾患である事実は大切にしながらも、そのことに甘えすぎず、きちんと仕事に生きたいと願うなら、それに合わせて生き方も暮らしも整えるべきだと、あれこれ模索しているうちに、いつの間にか自分の中で自立が猛スピードで始まっていたのです。

自分のチームを増やすことが自立への近道


ワンチームで世界を目指す。

私のケースに置き換えて考えてみると、とくにここ2年は事業や経営のことを母に相談するのは限界だという厳しい現実を目の当たりにしながら生きてきました。

年代も違うなら、生まれ育った環境も時代さえも違う。きっと母も思うようにアドバイスできない歯がゆさと苛立たしさと、そしてなにより大きなストレスだったのでしょう。次第に喧嘩をすると「事業のことは私に相談しないで」と言いはじめました。

ところが、そんなことを言われても当時の私には、事業のことを相談できる相手はいません。仕事で関わる人たちはいても公私ともに支えてくれる人を見つけるのは容易ではありませんでした。

けれど、いつまでもひとりで抱えるのもかなり精神的にきつく、そこから少しずつ、もしかしたら自分の中でも気づかないうちにアクションを起こしていたのかもしれません。

やがて、まるでソウルメイトのようなビジネスパートナーに出会います。連絡をしていなくてもなにをしているのか、お互いになんとなくわかってしまう。決して男女の関係ではなくお互いが同じ想いを共有している不思議な存在です。

彼と出会い、ずっと願っていたワンチームで経営をすることが叶いはじめてから、長年の課題だった自立も次第に理想の形へとどんどん近づいてきたのです。母に頼らなくてもいいんだと思えたことが一番のきっかけでした。

私の場合は職業が起業という少し特殊なジャンルなので、自分のチームをつくること(結婚して家族をつくるのではなく)が自立への第一歩となり、会社を立ち上げて関わる人が増えてきた中で、自分がしっかりしなくてはと単純明快な自立する理由が自然にできて、精神疾患ともうまく向き合おうと自分自身に言い聞かせ、愛着障害気味だった母との癒着もあっという間に溶けはじめています。

「自立」の形を脳みそが酔ってしまうほど真剣に定義する必要はなくて、どんな人生が一番自分にとって心地よいのか。

もちろん、ときには自分とは違う世界がうらやましくなるときも、そしてその世界に対して自分がちっぽけのように思えるときもたくさんでてきますが、大切なのは、やはり自分らしさ、自分らしく生きられる自立の人生スタイルを見つけることです。

そして「こうしたらもっと暮らしが豊かになれるんじゃないのかな」と、ふと思ったアイデアさえもアイデアのままに留まらせておくのではなく、きちんとアクションに起こして自分で評価をすることが精神疾患を抱えていても自立に向けて歩みはじめる第一歩となるでしょう。

ソウルメイトのような親子の切り離し作業は想像以上に大変


書いて書いて書きまくって、心の浄化に努める日々。

私たち母娘は、おそらく親子以上の関係です。スピリチュアルな視点にはなりますが、おそらくソウルメイト(ツインソウル?)でしょう。

これを愛着障害と呼ばれるときがありますが、たしかにその側面はあったとしても、母がいる、私がいる、この2人だから人生のサイクルが回ることがたくさんあって、その中で関係性を変えなければいけないとなったときは、ソウルメイトの切り離し作業(電車の連結部分を切り離すイメージ)は想像以上に過酷で大変でした。

けれど、完全に切り離す必要はなく、自分が変わる努力をとにかく積み重ねていくこと。変わってほしいと相手に求めないこと。不思議なことに自分が変われば、相手(親)も変わるのです。覚悟や生き様を見せられて、なにかが伝わるのでしょうね。

***

久しぶりにうつな私に優しく生きたいシリーズを更新しました。きっと過去の記事とはこの文章に含まれているエネルギーが違うと思います。それは書いている本人が一番感じていること。

言葉はときに励ますものとなり、一方でどこかの誰かを傷つける側面もあります。けれどSelf0のコンセプトとして掲げている通り、書くこと、つまり発信することは、きっと誰かの背中を押してあげられると心から信じています。

今回の言の葉が、誰かにとって前に進む小さな「きっかけ」となりますように。

今日一日を大切に。
太陽の恵みに感謝。

Self0|ERICA YAMAGUCHI(atelier ERICA inc.)



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