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映画レビュー「生きる LIVING」

カズオ・イシグロが脚本を書いているということで気になっていた映画「生きる LIVING」を観てきた。元ネタである黒澤明の「生きる」をわたしは観ていないので比較してどうこうは言えないが、イギリスを舞台にイシグロが書き直した本作が自分の目にどう映ったかを書いてみたい。


1953年のイングランド。ロンドン市役所の市民課で課長を務めるウィリアムズは毎朝決まった汽車で通勤するステレオタイプっぽい公務員のおじさま。

当時の記録映像、当時の映画冒頭のあしらいによって観客をタイムトリップに誘ったのち、映画は通勤のシーンから始まる。今日から入所する若手男性ピーターが同僚となる人たちに朝の挨拶をする。通勤を通して役所勤めのお作法や課長との接し方のコツを伝授され、この時代がそうなのか、今も役所はそうなのかはわからないけど、とにかく「お役所ってこんな感じ」が強調されている。

デスクにはとにかく大量の書類が積まれており、捌ける書類よりも溜まっていく書類のほうが多いくらいだ。三人組のご婦人が子どもたちの遊び場(小さな公園)を整備するための陳情書を携えてやってくるが、彼女たちは役所のなかを散々たらい回しにされていた。ウィリアムズは新入りのピーターを案内役につけ、実際には彼女たちにピーターの研修(どこに何課があるか、という)をさせる。
さすがイングランドは紳士の国、もちろんどの課でも慇懃無礼な態度は貫徹される。わたしはいつの間にか学生の時に観た「日の名残り」のスティーブンスを思い出していた。

ウィリアムズはある日、役所を早退して病院へ。そこで医師から余命宣告を受ける。現役の役人とはいえ彼はいったいいくつくらいなのだろう。妻にはすでに先立たれており、息子とその妻と三人で暮らす家に戻ると、自分の財産にしか興味のない嫁が「クリスマスまでには出ていきたい」などと息子に話している。病気(がん)のことを話そうとするがなかなか言えず、貯金の半分をおろして役所を欠勤し、海辺のリゾートへ出かけていく。

今の時代、がんは必ずしも不治の病というわけではない。だが1953年ともなれば絶望に直結するものだったろう。酒場で酒に酔ったウィリアムズが、スコットランド民謡「ナナカマドの木」をピアニストにリクエストし自らも歌う場面には引き込まれた。
ウィリアムズの亡くなった妻はスコットランド人だった。




ウィリアムズが自身のたどってきた人生を振り返るとき、妻の死がひとつのきっかけになっていたはずだ。この「ナナカマドの木」を歌う彼の姿を見てそう思う。

部下だったマーガレット・ハリスがとてもかわいい。
彼女は職場でも臆せず「忙しいふりをするために書類の山積みが重要」とピーターにアドバイスをし、課長から転職の話を聞かれて「まだ決まっていません。面接は受けましたが」と真っ直ぐに答える。職場の同僚に自分がつけたあだ名を披露していくなかで、ウィリアムズは「ミスター・ゾンビ」だと遠慮がちに打ち明けた。
彼女の天真爛漫さにウィリアムズは自分の余生を再考するきっかけを得るが、息子にも言えない(「彼には彼の人生がある」と言って。マーガレットにはマーガレットの人生があるのですが)自身の末期がんをこの若い女性にだけ打ち明けるというのだけは、わたしはどうしても手放しで肯定することができなかった。
事実、葬儀のあとでウィリアムズの息子から「なぜ僕に話してくれなかったのか」と問われて辛い思いをするのはマーガレットである。家に居場所がないことで、精神的な拠り所に選ばれてしまったマーガレットに寄り添う女性の観客は多いかもしれない。

マーガレットとの交流を通じて職場にもどる決意をしたウィリアムズがどんなふうに余命を全うしたかが語られるのは葬儀後、部下たちによってだった。彼はもちろん部下たちを巻き込みながら、棚上げにしていたご婦人たちの陳情書にあった「子どもたちの遊び場」整備に向けて最善を尽くしたのだった。
ウィリアムズの後任に課長になったミドルトンは、残念ながら当初の決心も虚しく、日々の仕事に忙殺されて元の木阿弥になってしまう。だが若手たちは少し違った。特にウィリアムズから手紙を受け取ったピーターは。ウィリアムズが雪の夜に亡くなった公園を見下ろしながらの彼と巡査の対話には、胸に迫るものがあった。

上映後、出口に向かって階段を降りていく途中で若い女性がしゃくりあげながら泣いているのを見かけた。彼女もきっと何かしらの仕事をしている人なのだろう。
この映画のいいところは、老年期の感傷に訴えかけるのではなく、これからも仕事を担っていく人たちに向けてのメッセージが含まれているところだと思う。
平日朝の上映だったせいなのか、この映画の客層がそうなのかはわからないが中年〜老年の観客も多かった。彼らのすすり泣きは一体何に反応してのものなのか。自分に重ね合わせるのは決して悪い見方ではない。だが、わたしはこの映画は若い人にこそ見てほしいと思った。

「生きる」ということは「働く」ことなんだと思う。それは役所かもしれないし、企業かもしれないし、家族のためかもしれないし、目の前にはいない誰かのためかもしれない。
自分の仕事は後世に残るような大きな仕事ではないことの方が多い。けれど、世界の建設にわずかながらでも加担している実感を得る日々こそ、生き甲斐のある人生なのだろう。誰かのために働くことが、自分の人生を輝かせる。そのことを深く考えさせられる映画だった。

人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。

 サン=テグジュペリ「人間の土地」より

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エリンギ
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