石井美保『遠い声を探してー学校事故をめぐる〈同行者〉たちの記録』岩波書店、2022年

 鈍いなと思う。自分も自分の働いている職場も。 働いていると業務に追われ、瞬間瞬間は大きな出来事、非日常的な出来事と思えても忘れ去られがちなことは少なくない。日々こなすべきルーティーンに追われると、日常を過ごす中で浮かび上がる子どもたちや保護者、周囲の職員の心の模様を見つめようともしなくなってくる。本来、その時々の感情を具にみとっていく必要があるにもかかわらず…
 勤務校では、毎年6月から7月にかけてプールが始まる。それと同時期、ふとネットを通して知った本を読み始めた。かなりきつい読後感である。自分を含めた学校というか自分たちが生きている社会の鈍さを感じる。教員として身につまされる思いだ。

 本書は、2012年夏、小学校のプールで起きた事故を追った約10年にわたる記録である。著者は文化人類学を専門とする京都大学の石井美保。石井が関わった事故の調査や関わった人のインタビューを中心に本書は進んでいく。
 当時、小学校1年生だった羽菜さんは夏休みのプール開放時に亡くなった。事故後、第三者委員会が立ち上げられ、事故の再現検証が行わたものの、不十分なものに終わる。両親の思いは、羽菜ちゃんは「なぜ」、「どのようにして」亡くなったのかその詳細を知ること、言い換えれば、羽菜ちゃんの「最後の声」を聞くことだった。しかし、両親の思いを他所に学校や教育委員会は未来に向けた対応をとっていく。そこで両親は自主的な検証に乗り出し、羽菜ちゃんの「最後の声」を探そうとする。
 石井は両親の〈同行者〉として、事故に関わった小学校の教員、行政職員らへインタビューを行なっている。その中で、事故後の対応やその時の思い、「償えない」負い目を聞き取っている。
 事故の根本的な原因は何か、そして学校や教育委員会が未来に向けて動き出そうとする日常への「回復の物語」を過ごそうとする中で見過ごされていくものは何か。癒えることのない痛みを抱えた人、その人や周囲の人々に思いを馳せ、〈同行者〉として歩む回路はどこにあるのか。学校の現場に立つ者として本書から考えさせられることは多い。
 学校での大きな事故だけではない。日常を脅かす出来事が起こるたび、人々の思いとは裏腹に「回復の物語」は声高に掲げられ、日常へと戻ろうとする作用は働く。ルーティーン化する日々の中にあっても、日常への「回復の物語」に収拾されえないものに思いを馳せ、「償いえない」負い目を抱えながら、言葉を紡いでいく〈同行者〉であろうとする。それが責任を引き受けることなのだろう。このことは忙しい中でも心に留めておきたい。

 以下からは引用。

事故にかかわり、羽菜ちゃんの死に直面したそれぞれの人が、その喪失の痛みと「償いえない」という負い目を抱えている。それぞれにとっての「事故の後」を生きようとすること。日常のルーティーンに甘んじ思考停止に陥るのではなく、日常の秩序を脅かすことのない物語の中に自己の事実を回収しようとするのでもなく、平穏な日常そのものを失い、もう元には戻れない遺族の痛みを感じつづけること。そのように自身も痛みを抱えながら、その痛みとともに事故について伝える言葉を紡いでいくことだけが「何をしても償えない」という事実の下にあってなお、それぞれがみずからの責任を引き受けることなのかもしれなかった。

288-289頁

(母)マニュアルじゃなくて本当にコミットメントなんだっていうことを強く意識していただきたい(母)

300頁

 この両親の願いに応えるためには、事故という出来事について知っているだけではなく、羽菜ちゃんという一人の少女の存在と、彼女を失った両親の癒えることのない痛みに思いを馳せる必要があるだろう。それは、ただマニュアルに従うことで安心を得ようとするのではなく、日常に潜む危うさと命の脆さを常に感じ取りながら、想像する力をもつことを意味する。事故という出来事を原点に据えて訓練に取り組むことは、守りきれなかった命があるからこそ、いま向き合っている子どもたちの命を守りぬくための能動的な行為である。同時にそれは、羽菜ちゃんの存在を想起しつづけるという意味で、未来だけではなく事故という出来事に事後的にコミットしていくことでもある。

300-301頁

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