基準
世の中にはたくさんの人がいて、10人いたら10人とも、物事の捉え方や思考、固定観念が違います。
一人では生活できませんから、時と場合によっては、他者の基準に合わせないといけないこともあります。
それが職場の上司や、組織のトップ、または先輩などの年長者などであれば、反論しにくかったり、言ってはいけない雰囲気もあるでしょう。
ただ、どんなに権威があっても、一人の人間である限り、間違いを起こす可能性は誰にでもあります。
ですから、どんな関係性でも、互いに必要なことは言い合える関係性がベストでしょう。
その時に、明らかに間違っていることを言わせない雰囲気があったり、見聞きしている方も黙って受け入れるだけでは、誰も成長はしません。
しかし、残念ながら堂々と意見をしても良い空気は、あまり日本の風土にはないような気がします。
日本人は才能で人を評価できず、年齢、権威や肩書でしか人を見ることが出来ないところがあるからです。
何を持って基準を定めるかを考えた時、どこかに基準を合わせるでしょう。
誰かのある考えに同意をしたら、周囲の人だけではなく、自分自身のことも貶めたり、傷付けることになるのであれば、その基準に合わせなくてもいいのかもしれません。
例えば、自分は成長をしようと勉強したり、研鑽を重ねているのであれば、成長しようと努力している人と繋がり、そこに基準を合わせるのです。
もしも今いる場所で、指示を出す側の人が同じタイプではなければ、無理をして違うタイプに合わせなくてもいいでしょう。
改めて考えてみると、憧れたり、尊敬する人がその場にいるだけで、近づきたい気持ちになったり、指示も素直に聞ける気持ちになったり、真似をしたくてどんどん教えを乞う気持ちになります。
その一方で、尊敬の気持ちが持てなければ、いくら言うことを聞くように言われても、なかなか心から受け入れることは出来ません。
ですから、もしも自分が権威のある立場になったり、誰かに何かを教えたり、指示しなければいけない立場になった時、周囲の人が黙ってついてきてくれるかどうかは、どれだけ周りから愛されているかどうかかもしれません。
愛されているかというのは、それだけ愛してるか、ということでもあります。
人間の器の大きさもあるでしょう。
多くの人から愛される人は、多くの人を愛している人だと思います。
私はそのような人を目標にしたり、憧れたりするので、そこの基準を合せるようにしたいと思っています。
例えば、あまり憧れないなとか、場合によっては反面教師のように考えてしまう人のことを考え過ぎないということも大事です。
好きな人のことを、寝ても覚めても考えてしまうことがあるように、嫌いな人の事ばかり考えてしまうと、そこに基準を合せにいっているようなものです。
ですから、いつも基準を合せるのは、なりたい姿や憧れのあの人で、望まない姿や反面教師の人のことは出来るだけ考える時間を持たない方がいいでしょう。
一日は24時間、一年が365日。
約8760時間です。
一日8時間は夢の中にいたとして、一年で起きて活動しているのは5840時間です。
5840時間と書くと、一年の時間って少ないような気がします。
5840時間しかないのであれば、その貴重な時間を、必要ではないことに基準に合わせる時間に使ってしまっては、とてももったいないような気がしませんか。
それよりも、限りある時間を、自分がそうありたいと思う基準に合わせて過ごせば、今日という一日を大切に使えると思うのです。
そのためには、なりたい姿を明確にする必要があるかもしれませんし、憧れる人がいれば、その人みたいになろうと努力も必要になってくるでしょう。
そうやって、与えられた時間を大切に過ごすのか、それとも嫌なことや嫌な人のことを考えて、苦しい時間を過ごすのかは自分次第です。
ただ、本当の意味での間違いとは、基準を合せようとしないことが問題なのであって、実はどちらを選択してもいいのかもしれません。
人生80年と考えると長く感じられますが、約700800時間です。
その時間を、なりたい姿に基準を合せて生きるのか、それとも恨んだり、嫌ったり、憎んだりしながら生きるか、時々は考えてみてもいいのかもしれませんね。
いかがでしょうか。
今日もお読みいただきありがとうございます!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?