私は最近、心の底から願う本当の思いによく気が付くことがあります。 今までは、経済、仕事、人間関係、健康、この社会で生きていくうえで、こうであったらいいなとか、物理的な面であったり、目に見えるものを望んでいました。 なぜならその願いが叶うことが、私の幸福につながると考えていたからです。 ただし当然、今持っていないものを欲しがりますから、手に入れることに躍起になったり、手に入ったとしても失う恐怖、また私には手に入れられないのではないかという不安や心配の中でいつも生きていまし
生き方のクセを見ていると、時々自己犠牲的な生き方になっているのではないかと感じることがあります。 誰かのためにとつい我慢したり、時には、何かのために自己犠牲を強いてでも手に入れようとしていることに気が付くことがあるのです。 確かに、日常では自己犠牲になっている状況はよくあります。 人間関係で無理をしたり、育児や家事、介護をされていれば、自分の事よりも支える方が中心になっていくでしょう。 また職場でも、自分は無理をしてでも、相手のためにと思って何かをしてあげたいという気
気持ちのもやもやを感じたことがありますか。 または、理由がわからないけれど、心に雲がかかってすっきりと晴れないような感じはありますか。 私は最近、今までずっとそう感じることが多かったことに気が付きました。 いつも心がどこかもやもやしていたり、すっきとと晴れない。 感情をどれも全力で味わうことが出来ていないという事に、気付けていなかったのです。 例えば、子供の頃のように嬉しいとか、悲しいとか、いろんな感情を全力で出し尽くすことがなく、どこか人に気を遣ったり、自分の中でセ
毎日の生活の中で、私たちは意識の中に抱える問題や、課題を周囲の人に投影させているという事はよくあると思います。 例えば、両親の姿を、周囲の人に投影させて、同じように見ていたり、今感じている気持ち、例えば、あの人は私を嫌いに違いないと思っていても、それは投影の可能性もあるという事です。 無意識のうちに行われるこの投影は、心理的に防御、いわゆる心を守るために、自ずから行われているようです。 そうとわかれば、今感じている、 『あの人はこう思っているの違いない』 という思い
心と身体は影響し合っているというのは、もうおそらく誰もがわかっていることと思います。 西洋医学だけで考えると、心の状態が身体に影響を与えるなんてと思われるかもしれませんが、世の中には原因がわからない病気というものがたくさんあります。 その中でも、今日は痛みについて考えてみたいと思います。 痛みが出た時に、その痛みを抑えるような薬を飲んだりすることはあるでしょうか。 私はいつもそうしていました。 何の検査をしても、どこをどう調べても痛みの原因がわからなく、今を快適に過
多くの人が心の平安を願い、またそのためには現実も満たされた生活を望むという事もあるでしょう。 お金があれば 好きな仕事に就ければ 大切な人と関係がよくなれば このように、心の平安がいつも、現実にあらわれる外部の現象と深く関わっている、と思い込んでいれば、満たされた生活を夢見ることもあると思うのです。 それは心の平安のためだからです。 しかし、この考えで生きていれば、 お金が無かったら不幸だ 好きな仕事に就けなければやりがいはない 大切な人といい関係が出来なければ、誰
前回、感情を認めるという事は勇気がいることだと書きましたが、 今回は、委ねる勇気について書いてみたいと思います。 皆さんは、自分の事を認めることが出来ますか。 または、周囲の人のことはどうでしょう。 さらに言えば、小さい子供や、お年寄りなど、目をかけてあげたほうがよかったり、助けが必要な人に対してはどうですか。 私と同じことが出来ないかもしれない。 だから、何とかしてあげたい。 もしも、純粋にこのような気持ちがあれば、とても素晴らしいことではありますが、もしかした
大人になると感情をあまり出さないほうが良いとか、感情コントロールできない人は良くないと言われます。 ですが、本当にそうでしょうか。 良い人にならなくてもいいのではないか、と私は思うのです。 確かに、周囲にいつも感情を爆発させていては、みんな困ってしまうかもしれません。 ただ、それでもいいと言ってくれる間柄や、その姿もまた受け入れるよと言ってくれる人であれば、心をゆるして、気持ちを伝えることもあるでしょう。 もしも赤ちゃんが、良い赤ちゃんだったらどうでしょう。 周囲
前回、男性脳と女性脳の両方を持ち合わせているという事を書きましたが、 今回もその続きとなります。 両方を持ち合わせていても、どちらかに傾きが大きかったり、私のように片方を認めたくないとか、バランスが良いことばかりではないかもしれません。 例えば、弱い姿をゆるせなかったり、その部分を受け入れられないとか、または、私は強くないと思い込んでしまったりしてしまう。 本来なら弱さも強さもそのどちらも同じように持ち合わせているにもかかわらず、それを認めることも受け入れることも、な
男性と女性の違いは大きく、それは互いに別の惑星からやってきた存在同士ではないかと時には思えるほどだなと感じます。 ただ、一人一人の中にもまた男性脳と女性脳がそれぞれ存在しているでしょうし、その二つの性質を持つ脳が、バランスよく働いてくれていれば、人間関係を構築する上でも、スムーズに物事が運ぶのではないかと思うのです。 私の場合は、どこか自分の中にある男性脳を認められないところがありました。 認められないというよりかは、見ないようにしてきたとか、受け入れない部分があったと
アドラー心理学では人を褒めてはいけないと言っています。 これは人を育てる上で、上から評価するのではなく、横から応援したり、勇気づけることが大切だからという理由のようです。 しかし、日常生活では人に対して褒めることもあるでしょう。 これには、褒める技術が必要だと私は思うのです。 自分だけではなく、周囲の人を認め、発言するときには褒め言葉も出てくるでしょう。 特に、成果を上げた時など、上司や部下、先輩と後輩、そして親子間では他者を認め、相手に対して褒める言葉も出てくるは
尊敬する人はいますか。 誰かを尊いと思い、敬ったりすることはあるでしょうか。 もしそうであれば、そこに自分を含めてみませんか。 自己を肯定するときに、言動を認め、受け入れるという事はとても大切でしょう。 時に私たちは、自分に対して世界で一番厳しい言葉をかけていることも多く、罪の意識を感じたり、過去の行いを責めたり、今の状況に対しても否定や拒否、批難する気持ちが大きく、強く出てくることがあります。 世界中があなたを認めていたとしても、私たちは、何より自分自身からゆるされ
不安になることや心配、恐れがあれば、それに備えて様々なことをするでしょう。 先の最悪な事態に備えておくことで、その不安や心配、恐れの感情は考えなくてもよくなったり、多少は薄れます。 もしもの時のために、いろんな意味で保険をかけていたり、万が一に備えておくことは、心の安心と余裕を生むのかもしれません。 ただ、その考えであれば、不安や心配の感情は若干薄れたり、見ないように、そして考えないようにできただけで、本当の意味でその感情を消化できたわけではないかもしれません。 私も
私自身という存在を表すとしたら、皆さんはどのような表現をしますか。 例えば、作家さんのように本を書き、言葉で表現する人もいれば、画家のように絵で描くかもしれません。 音楽や踊りなど、音や身体の動きで表現する人もいれば、料理や建物を建てたりするなど、みんな自分自身をいろんな方法で表現しています。 それはいわゆるアイデンティティであり、すべては自己表現の表れなのだと思うのです。 そう考えた時に、もう一度改めて、私という存在とは何か、という事について思い返してみると、それは
挑戦することに戸惑いを感じたら、そこにあるのは失敗に対する不安や恐れ、心配があるのかもしれません。 また、それまでに何度か失敗した経験が消化されておらず、気持ちの上で、失敗のまま終わってしまっているような状態であれば、次に進もうとしたときに足がすくみ、踏み出せないこともあるでしょう。 しかし、本当の意味で失敗というものはないのです。 生涯で1,300もの発明と技術革新を行った、発明王であるエジソンも失敗についてたくさんの名言を残しています。 私は失敗したことがない。
私には骨格で、以前から少し気になっているところがありました。 特に痛みがあるとかの支障が出ているわけではありませんが、そこがとても気にはなっていたので、何とか治したいなと思っていたのです。 身体のついてはいつもどうしてあげたらいいのかなとか、何をすればいいのかなと考えてはいたのですが、治そうとしているのを感じた時に、今の状態を修正しようとしていることに気が付いたのです。 修正が悪いというわけではありません。 ただ、今すぐなんとかしないといけないほど痛みがあるとか、生活