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ふわりふわりと

もうどれくらいになるかわからないけれど、毎朝日の出の時間に起き出して、日の出を見ながらお祈りをしています。

特定の宗教のものではなく、完全に自己流にはなります。

前の晩がどんなに遅くなっても、日の出には必ず起き出すという習慣が出来上がってから、日の出前にはアラームをかけなくても起きられるようになりました。

とにかく寝るのが好きなので、以前はいつもぎりぎりまで眠っていたけど、なぜかわからないけど続いているから不思議です。

毎朝外に出て、自分のルーティーンになっているお祈りを一通り、1月1日以降は地震災害に遭われた方への祈りも行うようになりました。

お祈りするようになってからというもの、毎日が修行だなと思うことがあります。

それは以前、投稿した

見ざる聞かざる言わざるでも書きましたが、自分の言葉や業想念を深く考えるようになったからです。

実は毎朝、一日の言霊と業想念について祈り、今日こそは気を付けようと思うのですが、

結果毎日惨敗しており、そのたびにまたやってしまった、余計なことを言ってしまった、いつになったらできるようになるのだ、と打ちひしがれたりまします。

ただ、あまり悔やみ過ぎず、自分ではわからないけれど、きっと良き方向に進む階段を今日も一段昇れたと信じることにはしていますが、

365歩のマーチじゃないですけど、3歩進んで2歩下がる、みたいな感じでしょうか。

もしかしたら、業想念を刺激されるような場所や、そのような人と一緒にいないのも大切かもしれませんが、自分の都合だけで選ぶことは難しいです。

発する想念と違えば、どんなに一緒に居たくてもいられない状況になってしまうのであれば、今の自分の環境や、周りの人間関係を見回して、自分が発しているものを知るのも一つの手かもしれませんね。

今の環境を一度受け入れて、そこに感謝することも必要ですが、だんだんと合わなくなってしまったり、そこに行くと心が落ち着かない、イライラしてしまうという環境であれば、

自然とそれぞれが出す波動のチャンネルが合わなくなってきているかもしれません。

そういう時は、頭で考えれば離れたくないとか思うかもしれませんが、そこでの学びが終了したということでもあるので、卒業することも視野に入れても良いかもしれません。

朝の祈りを中心にしているうちに、一つだけ変わったなと思うことがありました。

それは、何も恐れるものはない。
ということに気が付いたことです。

この先、何をしたとしても、どこに行っても、きっと大丈夫というなぜかはわかりませんが確固たる自信が出てきました。

これは、そうなったらいいな~という希望的観測程度のものではなく、きっと何に挑戦しても必ず良き方向に進む、と思えるようになったからです。

それがわかると、何に挑戦してもいいという勇気が湧くし、挑戦してみようという常に前向きな姿勢でいろんなことに向き合えるようになったのです。

逆に、自分に合わないなと思っていても、恐れからそれを手放せずにいるのではなく、ではさっさっと次に行きましょう、みたいに何に対しても執着がなくなってきました。

もちろん、苦労を重ねて一つのことをやり遂げるのも大切ですが、ふわりと軽やかに問題を乗り越えて生きる道も良いと思うのです。

皆さんはどちらの道がいいでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!

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