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満たす
いろんなものにとても恵まれている時、そこに在る大きな愛に気が付くことが難しい。
本当の意味でその愛に気付くことが出来るのは、不足している時なのだと思います。
満たされたい思いが強い時、そこには満たそうと頑張る姿や、その不足を認めることが出来ない状態があると思います。
人間は不完全な生き物、だから完全を求めてしまう。
そう思い込んだ瞬間に、私たちはその不足を埋めることだけを考えてしまうでしょう。
しかし、本当の意味での完全とは、足りない状態を含んだものであると思うのです。
コップの水を満たしたら完全になれる、そう思い込んで、足りない部分を足した瞬間に、実は不完全になるという皮肉。
不足している部分を含めて、私たちは完全なのです。
大事なことは、その足りない部分を恐れないという事でしょう。
物質的にも、環境もこんなにも恵まれているのに、なぜか虚しい。
幸せなはずなのに、どこか孤独がある。
何をやっても、心にぽっかりと穴が開いたような気持ちだ。
どれだけ水を求めても、心の飢えや渇きが癒されない。
私は一体いつまで、どれだけ頑張り続ければいいのだろう。
そんな風に思う時、その心の在り方は、むしろ正常な状態なのではないでしょうか。
心にあるその虚しさ、孤独、ぽっかりと開いた穴を否定したり、その状態を恐れるのではなく、それもまた完全であるが故の一部であるという風に、愛し、美しく尊いものとして大切にしていいのです。
ですから、むしろ心の不足や空白があることは、正常な作用なのではないでしょうか。
大切なものに気が付くとき、それは失った時かもしれません。
そう考えると、不足していたり、失う事もまた、愛を知るための一つの役割に過ぎません。
不足していることや虚しさ、心に空いた穴を埋めるのではなく、むしろ不足を積極的に愛する姿勢で生きること、それこそが本当の意味での完全なのではないでしょうか。
自分の心が寂しいこと、虚しいこと、孤独、心にぽっかりと穴が開いている事、そのような自分をどう思いますか。
私は、そのような自分を認めたくない時がありました。
いつも満たされていたいし、虚しい姿も孤独な自分も、そして心にぽっかりを穴が開いていることも、そんな自分を見ていたくありませんでした。
もしもそのような姿を周囲に明かした時、そういう自分を恥ずかしいとか、みっともないとか、可哀そうなどと同情されたくないという気持ちもあったでしょう。
ただ、その部分を受け入れることが出来ない限り、いつもいつまでたっても、不足を埋めるためといいながら頑張り続けるしかないと思うのです。
強がることをやめて、自分の姿そのままを見た時に、不足は私の一部であり、そこを愛さない限り、私のすべてを愛することは出来ないのだと感じたのです。
それどころか、むしろ人間の本質は、その不足の部分にこそ在るのではないかとすら感じます。
諸行無常の中で生まれる苦しみや悲しみ、虚しさ、絶望、そこにあるのは美しく尊い感情です。
そして、そのような不足の感情の中でこそ、実は愛にあふれた場所にいたことを知ることが出来るのです。
もしかしたら私たちは、満たされることの方をむしろ、心のどこかで恐れているのかもしれません。
ですから、どうぞあなたの孤独を愛してください。
虚しさを、寂しさを、心にぽっかり空いた穴を、美しく尊いものとして、大切にしてください。
それをなくそうとしたり、恐れたり、思わないようにしたり、そんな風に思う自分はダメだと思うことはもうやめて、宝物のように優しく抱きしめてください。
そして、それこそが私である、と宣言し、私が完全であるという事を認めていいのです。
いかがでしょうか。
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