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流す
前々回の投稿で、自分の機嫌は自分でとる、という事を書きました。
気分が害したり、腹をたてた時に、その感情を発散したり、気分を取り戻すために、自分がどのような行いをしているのか、という事に注目してみると良いと思うのです。
例えば、相手にきちんと意見するとか、言えない相手であれば誰かに話を聞いてもらうという事も出来るでしょう。
ただ、その前に、一度感情は感じ切っておいたほうが良いかもしれません。
私も先日ちょっと職場で嫌だなと思うことがありました。
ただ、そのことは以前から不信感があったので、今に始まったことではなく、今回は思い切って気持ちを伝えた方がいいのかなと思ったのです。
しかし、その前に一人で静かに気持ちを感じていた時に、
『私は怒っている』という言葉が浮かんできました。
そうです。
私は怒っているのです。
正直、一体何に怒っているのかもわかりませんし、また怒っているという感情を冷静にみられるぐらい、特に激高しているとか、感情が爆発するでもなく、ただ静かに怒っているだけだったのです。
それに気が付いて、気持ちを認めた途端、さっきまで怒っていた感情がどこかに居なくなり、相手に対して物申したい思いが一切なくなりました。
本当は嫌なことをされたときに、その場で毅然とNOを伝えた方がよかったのですが、私はそれが出来なくて、なんとなく笑ってやり過ごしてしまいました。
相手からしたら、そのことを後から伝えられてもよくわからなかったでしょうし、私自身もその場で伝えられない自分に対して、怒りを持ったのかもしれません。
今回感情を観ていくときには、その怒りの感情を大切にしました。
結局私は、相手に対しても自分に対しても、本当の意味で怒っているわけではなかったのです。
ただ、怒っていただけなのです。
これは怒るとか感情と、目の前の現実を因果関係で結ばないという事になります。
前々回の投稿でも、人の心は移ろいやすいと書きましたが、いつも一定ではないものを、無理矢理一定に保つのは至難の業です。
そのため、私たちの感情は常に移ろいでおり、喜びも悲しみも、また怒りや絶望も感じたい時に感じているのです。
その感情を、何かのせいにしたり、現実的なことと結び付けて、
『○○のせいでこの感情になった』
と言うのは、もしかしたら大きな間違いなのかもしれません。
感情というものはとても自由で、何ものにも束縛されないものなのかもしれません。
ではなぜ私たちは、現実と感情を結び付けたり、そこに因果関係を持たせているのでしょう。
例えば、目の前に食べ物があるとします。
それをみて、
ある人は喜び、
ある人は悲しむ、
また、ある人は怒り出すかもしれません。
しかし、事実としては食べ物が目の前にある、というだけです。
ですから、出来るだけその事実だけを見つめ、その事実を淡々と観ることが必要になります。
また、感情に関しては、自分でコントロールしようとしないという事も私は必要かなと思います。
感情をコントロールすることはとても大切だと考えられていますし、感情的になれば、話し合いもうまくいかない時もあるでしょう。
ですから、時と場合によっては感情を抑圧したり、コントロールしようとすることもあると思うのです。
ただ、感情をコントロールしようとするという事は、感情は自分の中にあり、私のものだと考えているからですよね。
感情が私の所有物であれば、いつでも抑圧もコントロール可能です。
しかし、もしも私の所有物ではないとしたらどうでしょう。
感情のコントロールが難しいとか、感情的にならないようにするという考え方であれば、感情は私が所有しており、私の力ですべてをコントロールできるはずだと思い込んでいないとできないからです。
さらに、よく考えてみると、誰かの悲しい話を聞いて一緒に悲しみを感じたり、怒りに共感することもあると思います。
それは、自分の現実には全く関係のなく、ただ話を聞いただけでも、一緒に同じ気持ちになるという事です。
このことがわかれば感情そのものが、私から出たものではなく、また私の現実との因果はないという事も言えると思います。
結局何が言いたいかと言うと、感情とはそれ自体が自由な存在であり、自分とは別のところにあるのではないかと思うのです。
ただ、それを感じたいがために、あえて因果関係を付けつけているだけだと思うのです。
目の前にたくさんの風船がふわふわと浮いていて、その都度感じたい感情を掴むように、風船を見つけます。
そうして、選んだ風船の気持ちになった、ただそれだけ。
それなのに、私たちはどうして感情と現実の因果関係を結ぼうとするのでしょうか。
例えば、小さい頃に感情そのものを認められなかったり、感情を出すと受け入れられない経験があれば、そこに因果関係をつくらないと、感情を出してはいけないような気がするというのもあるかもしれません。
理由があれば怒ってもいいんだ、とか、このように言われたら喜ぶことがゆるされる、みたいな出来事があれば、次第にその感情を感じるために怒るための出来事を創りださないといけませんし、喜びを感じるためには嬉しいことを言ってくれる人を探そうと必死になるでしょう。
ですから、感情と現実に因果はないという事に気が付くこと。
そして、ただその現実を観る。
また、出てくる感情を、風に流れる風船のように流すだけでいい。
本当の意味での感情の解放とは、感情をコントロールすることでも束縛することでもなく、本来自由なものとして、流すことではないでしょうか。
いかがでしょうか。
今日もお読みいただきありがとうございます!