So what?
運動指導の仕事をしていた時、多くの人からこのような問い合わせがありました。
「身体が柔軟になるにはどうすればいいか。開脚して、身体が床にベターっとつくようになりたい」
ちなみに聞いてこられた方は、特にスポーツのプロではなく、健康のために適度に運動しに来ている方たちです。
その時に、質問に答える優秀なアドバイスができたらよかったのでしょうが、私はいつも黙って聞いた後、こう答えていました。
「もしも身体が柔軟になったとして、だから何?」
今考えたら、熱心な参加者さんには大変失礼だったと思いますし、相手の環境(例えばプロを目指すとか)によっても違う返事になっていたかもしれませんが、
昔から割とそういう考え方だったので、むしろ人が、こうなりたい!と強く考える気持ちがよくわからなかったのです。
例えば、
お金持ちになった。だから何?
勉強が人よりできる。だから何?
ダイエットに成功した。だから何?
誤解を招きそうですが、これは相手を否定しているのではなく、努力したことはとてもすごいなと思って、もちろん一緒に喜んでいます。
だがしかし、
so what? だから何?
何かをしたり、得たりしたからといってその相手自身をすごい人とは思わないということです。
ブランド品を持っている。だから何?
いい会社に勤めている。だから何?
もう一度言いますが(笑)その相手の努力は素晴らしいなと思うのですが、
その相手に付随する何かが「あってもなくても」、相手自身に対する価値の大きさや、生命そのもののすばらしさは何も変わらないなと思っているので、このようにたいていやる気のない答えになってしまうのです。
ですので、逆にその人が「自分には何もない」状態だったとしても、だから何?という感覚になります。
すべての生命が、ダイヤモンドのように光り輝くすばらしい存在だとします。もう地球上のどんな素晴らしいものも、そのダイヤモンドの輝きにはかないません。
だとしたら、そのダイヤモンドが一生懸命に肩書をつけようとしたり、ブランド品をもつことを夢見たり、自分と違う自分になろうとするのって少し滑稽ではありませんか。
すでにダイヤモンドなのだから、自分の輝きやすばらしさにに早く気が付くことができれば、別の何かで満たしたり、鎧のような物を身に着けて自分を強く見せようとしなくていいということなんです。
人が良いものを持っていると、すごいねーと称賛したり、厳しい環境にあると、大変だねーと気の毒に思ったり、世間はなんだかいちいちいろんなことに反応しすぎじゃないかと思うのです。
しかも、その反応はたいていの場合、個人的な固定観念や、その人自身の思考の癖が大きく影響します。
当の本人はかわいそうでもなんでもないと思っている状況でも、勝手に同情されたり、自分ではつらいと思っていても、幸せそうでいいよねーとか羨まれたこともあったかもしれません。
思考から来る反応に振り回されて、外側の現実や他者に対して毎分毎秒一喜一憂しすぎている。
病気になった。だから何?
失業した。だから何?
冷たく共感できないって言い方に聞こえるかもしれませんが、これは病気になろうが、失業しようが、生命の持つすばらしさには何も変わらないってことが言いたいのであって、
そういうものは、あってもなくても、生命には何の影響もないってことが言いたいのです。
自分も相手もそのような存在だ、ということがわかれば、必要以上に何かを得ようという気持ちもなくなりますし、それによって得られるであろう称賛も同情も実は必要ないものだったと気が付きます。
結局出来事を通じて、人から与えられるであろう何かを求めているうちは、本当の自分のすばらしさに気が付かないのかもしれないし、いつまでたっても外側に反応し続けなければいけません。
こういうのをエゴから離れていく状況なのかなと思ったりもするのですが、自分の考えを一度疑ってみたほうがいいかもしれないなとも思うのです。
生れた時からしていた生活とか習慣や価値観は、自分で作ったものばかりではなく、誰かと生活するうちにそうなっただけかもしれないです。
学校や社会で教えられたから、このように生きなければいけないと考えているだけかもしれません。
誰かがこう言ったからとかではなく、自分はこうしたいとか、社会に適合していないと思っても、自分にはこのやり方があっていると思えば、それがあなたの生き方ではないでしょうか。
そして、本当の自分は社会に適合する生き方ではなく、あなたの生き方で生きるようにとメッセージを送ってくれているような気がするのです。