続く文化
先日、ある箸のメーカーさんとお話しする機会がありました。
食べるという事は人間の基本動作、特に箸を使う日本人にとっては、箸はなくてはならない道具だと思います。
私はその箸について、特に思いを寄せたこともなく、ただ手頃な長さの棒が二本あればいい、くらいの感覚しかありませんでいた。
しかし、その箸の製造に携わる人の話を聴くと、それはそれは素晴らしく、私が思っていたそのただの棒と思えるものに、日本の技術と伝統文化、使う相手を思いやる心がすべて込められていました。
もちろん、100円で買えるものや、大量に入った割りばし、外国製、後はスプーンやフォークもあれば、別に何でもいいじゃないか、そう思っていた私にとっては大きな衝撃だったのです。
箸が上手く使えない、物をつかむのに無駄に力が入る、掴んでもすぐに落としてしまう。
これはいつも自分のせいとか、私の箸の使い方が悪くてうまく食べられない、あとは滑る食材だから仕方ない、とばかり考えていました。
しかし、そうではなかったのです。
結果を出しているスポーツ選手であればあるどほど、使う道具にはこだわるでしょう。
いやいや、私はスポーツ選手ではないのだから、と思うかもしれませんが、一日三食食べたとして、1年で1095食。
日々使用するものだからこそ、本当にいいものを使いたい。
また、高齢で手に力が入りにくかったり、箸を持つのが難しい方、小さなお子様など、力まかせで何とかするのではなく、どんな状態でも誰もがきちんと箸を使ってものを食べることが出来ること。
それが本当の意味で箸の役割だと気付いたのです。
食べるということは生きる基本ですから、
そのための道具を大切にするという事は、同時に、生きることも大切にしているような気がしました。
食べられたら何でもいい。
最近は、食べているものもそうですが、身体に良いものというよりかは、お腹がいっぱいになれば何でもいい、みたいな風潮もあります。
その時がよければいいみたいな感じもありますね。
逆に、その部分をおろそかにするという事は、自分の事も大切に出来ていないような気がしたのです。
薄利多売が基本になってからは、文化の継承よりも、いかに安くいかにたくさん、という流れになってきています。
例え伝統や文化が詰まっていても、そこに目を向けることがなかなか出来ません。
私もその箸の話を聞かなければ、一生出会うこともなく、その辺に転がっている木の棒でもいいと思い続けていたでしょう。
箸の歴史を見てみると、もともとは日常使いのものではなく、神様に食物を供える儀式用のものでした。
弥生時代に中国から伝来したようで、天皇が新嘗祭で穀物を供えるための「神器」として使われたのが最初のようです。
箸は神器だったんですね。
また、手で食べる文化だったようですが、弘法大師(空海)が「箸文化には仏教的な意義がある」という教えを広めたことで、箸で食事をすることが一般的にも定着していったようです。
箸は神さまに食事を備えるためのものでもあり、また仏教的な意義を持ち合わせた、素晴らしい道具だったのです。
そして、「はさむ」「ほぐす」「つまむ」「切る」そのすべてができる優れものでもあります。
普段、無意識に行っている食事でも、一体あと何回食べられるのか考えたことはありますか。
また、その限られた回数を、何でもいいからお腹いっぱいになればいいと思うのか、一回一回を楽しみ、味わい、心地よい時間にするのか、どちらが良いでしょう。
生きる基本のために、使うものにこだわり、と同時に、その伝統や文化を残せるように伝えていくことも大事なのだと感じた出来事でした。
値段が高いからとか、目先の安さに飛びついてしまうことが私もよくありますが、何か買う時にはその道具にこだわり、その道具に込められた思いを大切にしたいなと感じました。
いかがでしょうか。
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