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与えるということ

人に対して尊厳を問う場面と言うのは、いつも身近にあります。

日本国憲法第13条には、基本的人権の尊重が規定されており、それは例え国家権力をもってしても侵すことはできません。

言い換えれば、国家権力ですら侵すことのできないほどの尊厳が、私たち一人ひとりにはある、ということです。

しかし、身近にある出来事はどうでしょう。

例えば、学校でのいじめや、家庭内での影響、職場での立場、社会の情勢。

いつも気が付いていないだけで、相手の尊厳を守りながら、周囲を尊重できている人はどれくらいいるのでしょう。

そして、自分の尊厳も守ることが出来ていない人もいるでしょう。

また、よくドラマで聞くセリフで、
『私はあなたのためを思って言っている。私の言う通りにしておけばいいのよ』
と、親が子供に向かって言う場面を見かけます。

人は誰でも、プライド、誇りがあるのだと思います。
それを失った時、自信がなくなったり、自己肯定できなくなったり、存在意義すらも見失うのかもしれません。

ですから、自分の、そして相手の誇りを『奪わない』こと。
それが、尊厳を守るということなのかもしれません。

では、誇りを奪わないというのはどういうことでしょうか。

生命はすべて平等であり対等、年齢、性別、形や種族によって上も下もなく、天上天下唯我独尊だと私は考えています。

これは広義の意味で、ある種の無関心であると言えます。
無関心と書くと、誤解されたり、本意が伝わりにくいかもしれませんが、

平たく書くと『生命はすべて平等である』ということ以外はどうでもいい、ということです。

年齢とか、性別、育った環境、形や肩書、種族など、ぜーんぶひっくるめてそこはどうでもいいところ、という意味です。

すべての生命にはそれぞれが与えられた尊厳があり、それは誰にも侵すことも、奪うこともゆるされず、

また、生命の尊さの前に、それ以外の比較は何の意味もないことだと言えるでしょう。

今はその逆で、無意味な比較にばかり目を向けてしまっていることも多くあります。

また、場合によっては良かれと思ってしたことでも、それが相手の誇りを奪ってしまうこともあります。

悪意はなくても、そこにはやはりどこか与える側の傲慢さや、そうすることで自分を満たそうとしている心がないかどうかは、見ていた方がいいのかもしれません。

ギバーの考えで言うと、先に与えることで、与えられるというのは聖書にも書いてあります。

そして、相手がして欲しいことをするのも大切ですが、

その行為が結果的に誇りを奪うことになっていないか、与える時には慎重に考えてみることも必要なのかもしれません。

まずは、『奪わない』ということを前提に考えると、
同時に『与えない』ということにも繋がるような気がします。

結局、与えるとか奪うとかは、関係性が対等ではないのです。

片方に偏ると、必ずどちらか一方だけに矢印が向き、お互いがプラスになるのではなく、上流から下流へ、水が流れるようになっていて。

それではいつまでたっても、下流は上流に水を流すことが出来ません。

大事なことは、互いに対等な立場での循環です。
『∞無限大』です。

上流からの流れは、いつか尽きてしまうかもしれない。
だけど、対等の立場での循環であれば、尽きることのない恒久の幸福がある。

そう気が付けば、
まずは『奪わないこと』
次に『奪われること』を『与えないこと』
そして『与えないこと』
ということが前提になります。

それは、相手の尊厳を守ることでもあり、また自分の尊厳を守ることでもあります。

与えるというのは、何かをしてあげたいとか、相手の利益につながるとか考えてしまいがちですが、

生命はすでに与えられた存在であるならば、何とかして与えようとするのはその存在意義を奪っている事にもなりかねません。

だからと言って、誰も助けず、利己主義に生きようと言っているわけではなく、

広義の意味での無関心。

誰かや何かと比較している人がいたら、そのために頑張るのもいい。
だけども、それによって、誰でも存在のすばらしさが損なわれることは全くないと、『伝える』こと。

そして、誇りを尊厳があることを『思い出して』もらうこと。

それが本当の意味での『与える』ということなのではないかと、私は考えています。

いかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!




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