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味覚

人工的に作られた塩分や糖分を少し控えてみたり、調味料を自然由来のものに変えてみて、その後に外食やスーパーのお惣菜を食べると異常な甘さや強い塩味に驚くことがあります。

味の感覚にさほど変化はないと思っていても、実は大きな違いがあるのでしょう。

どちらが良いとか悪いとは特に思いませんので、あまり気にせず食べてはいますが、味覚は粘膜がむき出しになっている場所ですし、五感の中でも特に感覚が鋭いのかもしれません。

食事は栄養補給のためと言うのもありますが、味覚を満足させたいという気持ちが強く出ることなんだろうなと思います。

食べるという行為は、食べたい(満たされたい)という思いと、味わいたい(感じたい)という気持ちの二つからなっているような気がします。

私はお腹が減っている時に、食べたいというよりかは、味を欲しがっているという事が多いなと思うことがよくあるからです。

それは身体に必要な栄養分としての調味料かもしれません。
今はいろんな料理を見ていても、様々な調味料が多種多様に使われており、その味を楽しんでいるという感覚が強いです。

ただ、そうなるとその素材が持つものを味わうというよりかは、調味料を食べているような状態になっているのではないかと思うこともあります。

味付けが強く濃く、もはや素材の味など感じることが出来ない状態であれば、食べることは出来ても、実は味わうことが出来ていないのかもしれません。

食べるという事は、食べたい(満たされたい)と味わいたい(感じたい)の二つから成るとすると、

食べたい(満たされたい)と思う気持ちは達成できても、味わいたい(感じたい)気持ちは希望通りにはなっていません。

そのため、どんどん味を強くしていったり、一つの料理でも様々な味付けで調理するようになって、求めるものを追いかけるようになる。

もしかしたら、一つの調味料で十分素材の味を生かした味付けが出来るかもしれないのですが、それが出来なくなってしまうんですね。

一旦元に戻って、薄い味付けに戻してみればいいのですが、その頃にはすでに味覚が濃い味付けに慣れてしまっていて、薄い味付けを美味しいと思えなかったり、それでは満足できなくなってしまっている。

その時にはもう、味わいたい(感じたい)よりも、食べたい(満たされたい)の方が強くなってしまっているのかもしれません。

ですから、そのような時には、素材そのものを味わえる食べ物も食べる習慣をつけるといいのかもしれません。

野菜や果物など、生食出来てさほど調味料がいらないものも食べることで、自然そのものの味わいを思い出すことが出来る。

そうすることで、味わいたい(感じたい)と思う部分もちゃんと感じてあげれば、食べたい(満たされたい)と味わいたい(感じたい)の両方が感じられ、食べるという行為が達成されると思うのです。

食べるという行為は、人間の根幹になる部分だと思いますし、断食や不食など、食べるものの種類を制限している人もいたりするのは、それだけ食べるという行為が崇高で大切な行為だからかもしれません。

特に大切ではなければ、それに対して何も考えなくていいはずですし、自由に、かつ、さして気にすることではないからです。

ただ、仏陀もイエス・キリストもやはり断食をしていたり、多くの宗教や修道者が食に対して厳格なルールで戒律を作っていることも考えれば、食べるという事がそれだけ重要であると昔から考えられてきたからです。

ですので、自分に合った食べ方や量で、丁寧な食事を心がける。

キリスト教カトリックでは、ミサの時に最後の晩餐を模した儀式が行われますが、もしかしたら食べるという行為は、毎回儀式のように大切で崇高な時間なのかもしれません。

忙しい時間の中で、駆け込んで食べることもありますが、食べることを大切にする時間を、一日の内一回でも持てれば、同時に生きることも大切に出来るのではないでしょうか。

いかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!

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