海外からだと見えてくる日本の可能性と問題点
「日本と世界を比べるとどうか」という質問をよくいただく。私が海外に住んでいるから、視点が違うであろうという、海外就職や留学に興味のある人から多い質問だ。
確かに私は、日本の中にいると見えない・気づかない物事にも気付いていると思う。中にいると、木を見て森を俯瞰することができないが、外からだとできる。もう一つは、他国の文化や習慣と比べているから、日本を客観的に見れる。これについては以前のノートを参照いただきたい。
これまでに私が見て、思っているのが以下だ。
いいモノやサービスがあるのに、ビジネスチャンスを逃している。
日本の農産物の品質と安全性はピカイチだ。しかし果物も米も野菜も肉も、日本の農産物は国際価格と比べるとベラボーに高い。
国内では減反、減産、そして後継者のいない農家が生産をやめてしまうなど、日本の農業は尻すぼみのように見える。しかしアジアに目を向ければ、高くても安全で美味しい日本の農産物を買いたい裕福層はたくさんいるのだ。
神戸牛なんて日本の10倍以上の価格でも飛ぶように売れている。山形のさんくらんぼ、紀州南高梅、ほかにも量産すればどんどん売れるはずなのだ。シンガポールやクアラルンプール、バンコク、上海などの大都市圏では、マジョリティーの購買力は日本より高いと思うし、金持ちは圧倒的に多い。
次に新幹線。信頼性と正確性は圧倒的に世界一。TGVの時刻なんてむちゃくちゃ。相手になりません。それなのに、世界各地で導入される高速鉄道で、新幹線グループは落札できずに負け続けている。カリフォルニアでもマレーシアでもだ。世界の誰もが日本の鉄道、特に新幹線の正確性には驚き、ありがたがるのに、それを世界で展開できないのはもったいない。
これは、日本の外にむけたビジネスコミュニケーションやストラテジーのスキル不足のためと思われる。もっと端的に言うと、英語の世界でのビジネスができていないからではないのか。
一方、日本酒もジャパニーズウィウキーも世界で超高値がついている。日本酒の中ではなぜか獺祭だけが超有名だ。いまや世界中どこでも見かける。日本酒通にとっては何百とある酒蔵のうちの一つでしかないが、日本の外では、「高級日本酒イコール獺祭」なのだ。なぜか。それは獺祭のブランドイメージとビジネス発信力しかないであろう。ホームページは英語、フランス語、二種の中国語がある。
品質のノウハウは日本の多くの会社がビジネスにできるのではないか
日本の製品やサービスの質の高さは何からきているのだろうか。日系のデパートでも、シンガポールではサービスの質がやや劣る。日本の伝統的なきめ細やかな心配りが足りない。そしてそれに由来する所作に奥ゆかしさ、あるいは丁寧さがない。フレンドリーであるのは逆にいいのだが。
新幹線だってモノとシステムだけ導入する落札が決まっても、定刻運用するのは人間なので、どこまでそれができるか。社員教育を通して社員一人ひとりの価値観を変えていかないと無理だと私は想像している。
では具体的にどういう教育をし、どういうカルチャーを職場に根付かせれば日本ではあたりまえの品質を輸出できるのだろうか?私にはわからない。これはビジネスコンサルティングとしてもチャンスであるし、ビジネスモデルとして知的財産化できるものかもしれないのだ。日本を外から見ていると、それくらいに価値のある貴重なものなのだ。「日本品質」はビッグなビジネスになりうると私は見ている。
English Communication
「英語ができないのは日本人」というのがこちらシンガポールでの皆さんの感覚だ。アジアどこへ行ってもそれは同じようだ。いまや中国、韓国、台湾、元フランス領のベトナムでさえ、社会に出る年齢では皆、英語はペラペラだ。元から英語圏であったシンガポール、マレーシア、フィリピン、ミャンマーなどは言うに及ばず。
英語はアジアでもどこへ行ってもビジネス公用語なのだ。
ある程度ビジネスで英語が使えるようになると、日本的発想で社交辞令や自己紹介をだらだらと長くやって、なかなかビジネスの本題に入らないことがよくある。日本人同士だと、これで良いのかもしれないが、英語圏では「結論先にありき」だ。本題をまずズバッと出すこと。
いろいろと理由を長々とのべてから、yesかnoかの結論を言う話し方をそのまま英語にするから、日本人とのミーティングは「時間が無駄に長い」と思われても仕方がない。実際に私がそう思うのだから。そういう心構えをしていないと、うまくビジネスはすすまない。このあたりについては、こちらのマガジンのあちこちのノートで触れているので参照いただきたい。
多様性の排除と村社会
同調圧力とか、出る杭は打たれるとか言うが、日本の中では人の考えに1から10の範囲があれば、1~3と8-10は周りから叩かれる。
世界にはマイナス100からプラス100くらいの様々な考え方があって、皆それを堂々と持ち出して議論する。人の考えは自分とは違うのが前提だ。だから人の意見をよく聞くし、自分の意見は相手がわかるように説明する。クリティカルな質問をせずにはいられない。そこから様々な違った考えを合成し、新しいものを生み出す土壌が豊かだ。
「それは常識だ」は、同じ文化圏だけで使える考え。「これ以上言わせるな。わかるよな?」という暗黙の了解はあり得ない。
今のコロナの日本の状況は奇跡のようなものだ。法律で規制していないのに、お互いに他人を監視しあって、大多数が「こうあるべき」という状況に落ち着いている。日本でしかできない素晴らしいことである反面、法の支配(rule of law)という近代法治国家の前提条件を放棄している。これは危険性をはらんでいる。
なんとなく皆で決め、新しい価値観を排除し、時には権力者に言いくるめられるという、中世の村社会システムそのものであることだ。マスクは白でないといけないとか、子どもが通学で日傘をさしてはダメだとか、最近だけでもいろいろと話題になっている。
もっと積極的にアイデアを出し合い、違う考えに耳を傾ける。子どもにも考えさせ、意見を表明するチャンスを与え、意見を戦わせる。そういうことをしていないと、critical thinking(批判的思考)ができず、社会に出るときに何をしたいのかわからないとか、困ったときに自分から道を探すことができない人がますます増えることになる。
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