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【118回】ありえないという否定の形(190412)

「まともならありえない」
という発想がすごく嫌だな。
なんで、答えがひとつって決められるんだろう。数学か?

教育ほど、「子どもの幸せ」というベクトルは同じなのに価値観が多様なものはない。

簡単に、「はいありえません。ダメー」と攻撃的に責められてるかのように相手が受け取ってしまうような言葉が、対話の中に生まれるのは、残念で残念で仕方ない。

ありえないなんて。
この社会の中で、苦しい中を生きてきた人たちもいて、その中の子どもたちは、もしや、「強い、ありえない」という空気の中を、もがきながら生きてきたわけで。

価値観が多様なのは当たり前。
相手を苦しませる価値観の提示の仕方になにか悔しくなって、こんちくしょうと叫ぶ。

安全配慮は必要だ。
その上で、共同体に貢献する経験を得ることを、強い価値観で一蹴されることが悔しいのだ。

例えば、「人をたたく」という行動を生徒が取っていたとする。相手も自分も傷つけることに、「その行動はよし」という価値観は得られないと思う。だから、「それはいけない」「許されない」と伝える。

でも、そのような行動を取らざるを得ない、そのように生きてきた子どもがいるならば、「ありえない」とする価値観だけでは、子どもの行動以上に子どもの存在を否定することになる。

「君が相手を叩くことで、相手は傷つく。それは許されない。しかし、君が苦しむのを見ることを、僕も苦しいよ」行動には共感できないが、行動の目的には共感する。そこから他の行動を一緒に考えようと提案する。

「ありえない」は、子どもも教師も傷つける言葉なのではないか。
「ありえない」は弱い人の気持ちがわからない言葉ではないか。
なんだか泣けてきた。
ごめんなさいね。

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