遠藤周作『沈黙』雑感①

 昨日、遠藤周作の『沈黙』を読む読書会で報告した。そこで気付いたのだが、私は「神が地上で何が起ころうが沈黙している」というこの作品の重大テーマについて、大した興味を持っていない。つまり私は、神の沈黙を疑問の余地のない当然のこととして受け入れている。これは重大な読み損ないではないのか。
 私が神の沈黙を受け入れる理由の一つは、少しキリスト教をかじったことによる。地上に介入する神とはユダヤ教の神であり(『旧約聖書』にはそういう記述が散見される…ようだ)、キリスト教の神はそうではないと。神は十字架上のイエスを助けなかった。彼にあの叫びを発するままにさせた。イエスを助けないのなら、まして普通の人間を助けることはなかろう。イエスの死は神の計画→救いの成就のために必要だったのだと言われても私は納得できない。私は神の沈黙こそが神の公平性の証であるように思っていた(「天は善人の上にも悪人の上にも…」)。

 とはいえやはりそれでも、今この場での救いを求めずにはいられない人々の悲痛な叫びというものに対して私が鈍感なのは重大な読み損ないだろう。私自身がそういう場に立ったことがないせいかもしれない。坂口尚の『あっかんべえ一休』には、祈る農民の姿を見た一休が、「あの人は祈らずにはいられないのだ」と衝撃を受けるシーンがある(記憶による引用)。何もできない。祈るしかできない。そうせずにはいられない。それは遠藤作品での隠れ切支丹やロドリゴの置かれた状況でもあったろう。しかしその祈りは直接には顧みられることはない。ここには、この状況を第三者の視点から眺めたのでは捉え損なうような何かがある。そして私は、読書とは第三者的に眺めることなのだから、捉え損なうのも当然であろうと考えるのを止めていた。
 ではその気づきを得てどうするのか。分からない。少なくともすぐに私が、今まで遠かった事柄の当事者になることはなさそうだ。だが私は自分の人生の当事者であるし(これは当たり前過ぎてよく忘れてしまう)、そういう意味では無縁な事柄などないのだ、とも言える。何をもって縁があると言うかにもよるが。
 そのような漠然としたことをつらつら考えた。

(追記)
 上記で私の言いたかったことは、より正確に言えばこうだ。「神の沈黙は、物理法則と同じような所与の前提である。信仰を持とうが持つまいが、この前提が変わることはない。にもかかわらず、あるいはそうであるからこそ、神はなぜ沈黙しているのかという悲痛な叫びは文学の題材になりうるのだろう。」
 信仰はこの前提を変えない。だからこそ叫びは悲痛なのである。

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