遠藤周作『沈黙』雑感③ 東洋と西洋、母性と父性

 『沈黙』は文学作品であるから、大きなテーマだけではなくディティールにも関心を払った方がいいのだが(例えば切支丹の唄とか方言とか長崎の様子とか)、私はどうしても抽象的なテーマに興味が向かってしまう。今回もまたそんな話。

 『沈黙』には大きな対立線が走っている。それがタイトルに挙げた東洋と西洋、母性と父性である。この作品に出てくる東洋人と西洋人には対立と、そして奇妙な和合が見られる。
 ちょっと整理し切れてないので、とりあえず簡単に示す。井上奉行と通辞などの日本の権力側とフェレイラはともに、西洋の神=人間を裁く父性的存在、東洋の仏=無条件に人を許す母性的存在と捉えている(フェレイラは転んだからこの考えに至ったのではない)。これは仏の慈悲とデウスの慈悲を比較した台詞(単行本版242~3頁)が例えば傍証となる。
 対してロドリゴのイエスは違う。彼が転ぶ場面で明らかなように、イエスはロドリゴを許し、ともに苦しむ存在として描かれている。超然と人間を見下ろし、裁く存在ではない。ロドリゴのイエスは母性的なのだ。

 キリスト教はユダヤ教、イスラム教とともに砂漠の一神教、父性的神を崇める宗教と捉えられることがあるが、それは正しいだろうか。少なくとも遠藤周作の盟友井上神父はそう考えない(『日本とイエスの顔』を参照)。なるほどユダヤ教は砂漠の宗教だろう。だがイエスの育ったガリラヤは緑豊かな豊穣の地であり、彼が「アッバ」と神を呼ぶ時には父性よりは母性的な存在をそこに見ている。遠藤が描く同伴者としてのイエスにも近いものがあるだろうか。これに関しては調べが足りていない。また、砂漠の宗教の神観がなぜ西洋にスライドしたのかも(西洋は緑豊かな地であるから)。

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