遠藤周作『沈黙』雑感② 単行本あとがき問題

 これも先週末の読書会で話題になったのだが、『沈黙』文庫版には単行本版のあとがきが収録されていない(私が単行本版を持っていて、他の参加者は文庫版を参照していたので気が付いた)。通常(どこまで妥当なのかは不明だが)、文庫版には単行本版あとがきを収録し、さらに文庫版あとがきを追加するものではなかろうか。それで言えば文庫版のあとがきもない。代わりに佐伯彰一による解説が付されている。
 では単行本版のあとがきにはどんなことが書いてあるのか。あとがきはわずか2ページで、書いてあることは大きく二つ。一つ目は、ロドリゴが最後に辿り着いた立場はプロテスタンティズムに近いものであって著者(=遠藤)の現在の立場でもあること。二つ目はロドリゴ=岡田三右衛門のモデルは岡本三右衛門=ジュゼッペ・キアラであること(あと3つ目は日記の引用についてだが省く)。

 以下は邪推である。きちんと調べれば裏が取れるかもしれないが、ひとまず書いておく。恐らく、一つ目の点が問題となって遠藤はあとがきを文庫版に収録しなかったのではないか。あるいは出版社側の都合か。確かに『沈黙』という作品そのものが「司祭の棄教」というcontroversialな題材を扱っている訳だが、あとがきはさらに一歩踏み込んでいるようにも見える。

 で、遠藤の最終的な立場はプロテスタンティズムをも越えて、『深い河』で主張される宗教多元主義に至った、と考えるべきだろうか。これも読書会で少し言及したが、遠藤自身の立場は『深い河』の中の登場人物である大津のそれと同一視されるべきとも言えないし、大津のモデルとなった井上洋治神父のそれとも同一視はできない、と思う。理由は上手く言えないが。
 大津と井上神父(遠藤の親友である)の思想にはズレがある。それは例えば神父の『法然』を読んでみれば分かるだろう。この本で彼は、宗教多元主義が諸宗教を俯瞰する立場に立っていることを批判している。神父によれば俯瞰は思索であって、宗教は思索の対象ではなく自身が生きるもの、それも諸宗教の内の一つを選び取って生きるものであった。もちろん神父は自身が生きる宗教(彼の場合は言うまでもなくカトリック)のみが真理に到達できると考えていたのではない。ただ自分が選ばなかった宗教が真理に到達できるかは分からない、と控え目に言う。


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