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ひとつ残らず、ぜんぶ愛/6

なにか声のようなものが現実を連れてきて
閉ざされた音の世界に入り込む。 

それが、だんだんと
同じ言葉を繰り返しているように聞こえて、
目を開けてヘッドホンを外す。



それはのんちゃんが私を呼ぶ声だった。 

なーにー?どこ?お風呂?
と返しながら
ベットから下りて風呂場に向かう。 

少し戸を開いたのんちゃんが、
濡れて、一層艶めく白い肌を覗かせた。


そして、わたしの目を見て

部屋から化粧落とし取ってきて。

と言った。 

言えば良いのに、それ。わざわざ呼び出さずにさ、風呂場からそれを叫んでくれれば良いのに
化粧落とし取ってきてーって。

そんな不満を顔に出しながら、はーいと答える。
 


風呂場から1番遠くにある
のんちゃんの部屋に入り
木目にばらつきのある机の上に
置かれていた化粧落としを手に取る


部屋を出ようとしたとき
脇に置かれているテレビの傷が目に入った。 

のんちゃんが実家に住んでいる時から
使っていたものだ。


その傷を見るたびに
あの日
実家の薄暗い部屋で
傷がついた瞬間の鈍い音が耳元で鳴る。 


焼き付いた記憶はいつまでも忘れられないのと
同時に思い出すのも容易い。 

その記憶を完全に引っ張り出してしまえば
長引くことを知っているので、 
慌てて目線を逸らして風呂場に戻る。

閉まった戸の向こうでシャワーが肌にあたり、
不規則に流れる音がする。 

呼びかけると
はーい。とくぐもった声がして戸が開いた。 
のんちゃんに化粧落としを手渡すと 
頼んできたときと同じように、わたしの目を見て
ありがとう。と言った。









テレビの傷は優が小学校6年生のときに
ついたものだった。


初めて
のんちゃんの、つまりは母の恋人に会った
クリスマスの夜だった。




優はのんちゃんとの部屋で、

床に突っ伏して泣いた。 

強い怒りと、悲しみ、寂しさで混乱していた。 

混ざりあった感情は憎しみに近いものだった。

12歳の優はそれを抱えきることが出来ず、

かといって手放し方も分からなかった。



どうしたの、?


背後からのんちゃんの声がする
いつから居たんだろう
どうしたのって、、、
なにを言ってるのそれはこっちが聞きたいよ。





優は部屋中の物をのんちゃんに投げつけた

携帯電話
次の日学校に持っていくための雑巾
ボックスティッシュ

そこらじゅうの目に付いたものを
次から次へと投げつける

ほとんど怒ったことのない穏やかな優の
豹変した姿にのんちゃんは
はじめは怯えていたが、
テレビのリモコンを投げつける寸前で
無理矢理、優の腕を抑え込んだ
バランスを崩し、2人して床に転ぶ

その拍子にリモコンが音を立てて
テレビの液晶に当たり
するりと優の小さな手から抜け落ちた 
傷はこのときついたものだった



のんちゃんは脱力した優を細い腕でぎゅーっと強く抱きしめて泣いた。優は初めて、のんちゃんが優を思って泣くところを見た。のんちゃんの肩が優の首に当たって息が苦しい。優の頬から顎を伝ったぬるいものが、のんちゃんの肩を濡らし続けた。優も、のんちゃんも、何も言わなかった。何も言えなかった。肝心なときにはどんな言葉も使い物にならないと、優はこのとき思い知った。




のんちゃんの控えめな泣き声が止んで、
次第に呼吸が楽になっていく。 
しばらく呆然としていると
スー、スー、と息を吸う音がした。 
残業が続いていたうえに
お酒を飲んだのんちゃんは、泣き疲れて、
まだ、のんちゃんより体が小さかった
優のなかで眠った。 
優は抱きしめられていたはずが、
いつの間にかのんちゃんを抱きしめていた。 
子供のように眠るのんちゃんを引きずって
すぐそばにあったマットレスに寝かせる。 
布団を掛けてあげようとしたけれど、
やっぱりやめた。 
のんちゃんの肩には
いびつな形をした涙の跡が残っていた。


部屋を出て、柔らかいオレンジの照明に
照らされた階段を下りる。

途中で1階のリビングの様子を伺うと、 
はっきりとした二重で体格の良い
のんちゃんの恋人であるその男性が
一切曇りのない笑顔を
優の祖父母に振りまいていた。

曇りがないのが
憎たらしく思えて仕方がなかった。 

リビングに行けば
また馴れなれしく





と呼ばれることが容易に想像できて
そのまま階段に座りこんだ。 
暖房が効いた部屋でも
階段は容赦なく冷たくて
優の体は冷えていった。

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