逃げ回って、やっとアウシュビッツ。ホロコースト。
クラクフまで来たら、いよいよそろそろアウシュヴィッツを見なくては。風化するから。
世界中の人に、見るだけでいいから一度は見てもらいたい我が故郷に佇む原爆ドームも、とてもマイルドになった。
ケースの中に展示される亡くなった人たちの髪の毛は、生きていた、人間の、髪の毛だから、80年も経ったら無くなってしまう。
でも、私たちも人間だから、見えなくなったものを想像をすることができる。
合法的に行われた国家ぐるみの大量殺戮「ホロコースト」
ホロコースト、1930〜1940年代にかけて、独裁政権を握ったアドルフ・ヒトラー率いるドイツ・ナチス党が行った、600万人以上のユダヤ人に対する国家ぐるみの組織的な迫害、大量殺戮。
第一次世界大戦で敗戦国となったドイツでは、巨額の賠償金の支払い等で経済状態が極度に悪化した。
ハイパーインフレーションで卵の値段は1000000000000(1兆)倍にもなり、パンを買いに行くにもリヤカーで札束を山積みにするような状態で、全ての国民が貧困に喘いでいた。
そんな中、ヒトラーは「ドイツ人の不幸の原因はユダヤ人だ」という典型的ないじめ手法を持ってして、エモーショナルでカリスマ的な演説を行い、疲弊した国民の心をガッチリ掴んだ。
合法的に政治力を拡大したヒトラーは、政権獲得後「全権委任法」を成立させ、ついには独裁政権を打ち立てる。
総統として全ての権力を握った彼は、“ドイツ人を守る”ために、合法的に“ユダヤ人を排除”した。
それもホロコースト。
日本人とホロコースト
ユダヤ人大量虐殺と聞くと、ショックを受けつつもユダヤ人に馴染みがないために、少し自分と距離を持った話に聞こえることもあるかもしれないけれど、知らないだけで日本人とも馴染みが深い。
東洋のシンドラーと言われるのは杉原千畝さん。
第二次世界大戦中、リトアニアに駐在していた外交官で、ポーランドやリトアニアのユダヤ人に対して「命のビザ」を発行している。
ほとんどのユダヤ人は、ビザを発給できる対象ではなかったにもかかわらず、自分の立場を捨てる覚悟で杉原さんは最後の日までビザを発給し続けており、そのビザで逃げ延びたユダヤ人は約6000人とも言われている。
余談だけど、今でも彼のおかけでバルト三国周辺で、日本人はかなり親切にしてもらえることが多いと思う。
ちなみに「シンドラー」は会社と社長の名前。
ホロコースト映画の大作、「シンドラーのリスト」でご存知の方も多いかもしれない。
ドイツ人、オスカー・シンドラーさんは、ユダヤ人の強制収容所送りを阻止するために、自ら営む軍需品工場に命懸けで1200人ものユダヤ人を雇い入れた。
日独伊三国同盟
第一次世界大戦で戦勝国となったにもかかわらず、領土も賠償金も十分に得られなかったと考えた日本は、中国に満洲国という傀儡政権国家を設立するがそれが世界から反感を買って、第二次世界大戦終了まで世界からは孤立の一途を辿る。
孤立した日本は、ナチスドイツがユダヤ人を大量に虐殺していることを知りつつもドイツに接近し、同盟を交わしている。
集団的自衛権は無くとも相互援助は行われている。日本の選択とホロコーストは無関係ではない。
ホロコーストはユダヤ人の大量虐殺だけではない
ヒトラーが“安楽死”と称してまず始めたのは、ユダヤ人ではなく、ドイツ国内の、“その血を汚す”、“生きるに値しない”身体・精神障害者、遺伝性の病気を持つ者、同性愛者、常習犯罪者などの虐殺だ。
ユダヤ人と共にロマ族やロシア人などの外国人捕虜も数多虐殺されている。
また、最初の絶滅収容所建設に当たっては、まずそこに住んでいた知識人を中心に、反抗勢力になり得る人々が一夜のうちに皆殺しにされた。
その後も、“優秀なるアーリア人種”であってもナチスドイツのやり方に賛成しない者は漏れなく消されている。
「人種」、「民族」、普段何気なく口にする言葉はスーパーポップに理想化されて、いつの間にか価値基準が内面化されていく。
それが人間一人ひとりの権利を脅かすものである場合は尚更、巧妙に隠される言葉の外にある言葉が守ってくれないものが何なのかについて、自分で知ろうとする必要がある。
最も悪名高い強制収容所、アウシュヴィッツ・ビルケナウ
ユダヤ人の絶滅について、ナチスの組織的合意が行われたのは、ドイツ・ベルリン郊外で行われたヴァンセー会議だと言われている。
“ユダヤ人問題の最終解決"に対して、“予想をはるかに上回る解決策"の決定は、「歓喜に満ちた雰囲気の中で行われた」と会議に書記として参加したアドルフ・アイヒマンは、後に振り返る。
ホロコーストが行われた施設の中でも、圧倒的に名前を知られているのが、ポーランド南部のオシフィエンチム市にある、アウシュヴィッツ強制収容所。
ヨーロッパ中から、トイレどころか椅子すらない電車にすし詰め状態にされ、時には1週間以上立ちっぱなしでアウシュヴィッツまで移送されてくるユダヤ人の数は増え続けた。
約5年間の間に約130万人のユダヤ人が移送され、少なくとも110万人がここで虐殺されている。
アウシュビッツ強制収容所は、アウシュビッツ第二強制収容所ビルケナウ、アウシュビッツ第三強制収容所モナヴィッツ、計3つの収容所で構成された。
ビルケナウまでは、現在無料シャトルバスが運行されているので、アウシュビッツまで行けば一緒に見学することができる。
ビルケナウのバラック内には、収納棚のように粗末な木板が2段積み上げられているが、1枚1m程度の木板は寝床として使われ、1枚に5、6人の人間が詰め込まれていたという。
効率性だけを追い求めた虐殺場
大量に人間を殺しを続けることは兵士にとって負担であり、銃殺は「非効率」だった。
「より効果的な方法で効率的に」
彼らが虐殺に求めたのはたったこれだけ。
ベウジェツやヘウムノなど、初期の絶滅収容所で散々大量虐殺や死体処理を効率的にこなすための実験が繰り返された結果、ガス殺が“最も優れた”方法として、アウシュヴィッツで本格的に導入された。
アウシュヴィッツのガス室の広さは7m×30m、約61坪。家で言うと、大人6〜7人が快適に暮らせる大きさ。
たったこれだけの敷地に2000人の人々が一度に押し込められ、研究され尽くした殺人ガスによってたった20分足らずの時間で葬り去られ、顧みられることは一切無く物のように捨てられた。
記憶から溢れ始めた絶滅収容所
グダニスクの戦争博物館で行われたアンケートによると、ポーランドの若者でも、アウシュヴィッツの約2倍、200万人以上のユダヤ人が殺されたベウジェツの絶滅収容所の存在や出来事を知る人は2%程度という、衝撃の結果が出ている。
現在、年間140万人以上が訪れるというアウシュヴィッツ行きのバスはクラクフ駅から何本も出ており、電車でも比較的容易に行くことができる。
一方で、ベウジェツなどの絶滅収容所への交通手段は以前と比較してもかなり限られてきており、実際に訪れようと考えても、非常に難しい状況となってしまったそう。マイノリティに追い込まれた者の“不都合な"歴史を伝える難しさを痛感する。
「過去」という危うさ
2024年は戦後79年目。ナチスドイツによる大量虐殺が終わってからも79年目。
生きていてすら記憶は美しく改ざんされていくのに、それを経験した人がほとんど居なくなれば、ますます容易く事実が失われていく。
人類の叡智を集めた結果、計画された尽くした大量殺戮が起こったという事実から学ぶべきことは尽きない。それが「民族」、「純血」など、美しい言葉で語られてきたことも見落とせない。
ある出来事をきっかけに、何かを憎んだり、自分(たち)から排除したりすることはいとも簡単で、“楽な”コミュニケーションですらある。
私事では、日本人の広島県民としてのアイデンティティも持っているけれど、アメリカ人から「えー!広島出身なのにちゃんとした手足があるんだね!冗談だよ!」と言われた時は悔しくて泣きそうになったし、思い出す度に嫌な気分になる。
それを持ってして、アメリカの全てを憎悪し始めるのは良くないし、泣いても悔しがっても仕方ないので、笑えないどころかそれは他人の尊厳を傷付ける行為だとその人に分かってもらうしかない。
ちなみに彼は本気で冗談を言っただけで、原爆の写真を見せて説明した後「金輪際辞めて欲しい」と伝えたら、少なくとも気まずそうにはしてくれたし、とりあえずお互いに知る努力をすることは、とても意味のあることだと思う。
地道な会話や相互理解の積み重ねで、ホロコースト的な発想が自分の中に芽生えないように、これからも毎日頑張るぞ、と決意が新たになった。
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