第9回(2024.11.11)の授業のフィードバックから
こんにちは。今年の工業心理学も後半に入りました。今日は認知の段階の3回目で、意思決定の話をしました。意思決定(decision making)は実はそれだけで一つの授業が作れるくらいいろいろな研究がなされていて、1回で話すのはとても難しいのですが、認知を中心とする認知プロセスの各段階がどんな役割をはたしているのか、という観点を中心にお話をしました。(それでも結構詰め込みすぎなんだけど…)
今回いただいたフィードバックからご紹介します。
行動経済学に少し興味がわいたので、余裕が生まれたら紹介されていた本も読んでみたいなと思います。
是非読んでください。
確証バイアスについてもっと知りたいと思った。
是非行動経済学の本を読んでください。有名な概念ですので、ネットでもいろいろなリソースがあると思います。
「人間は怠け者」という言葉が自分に突き刺さりました。本当は今すぐに取り掛からなければならない課題でも、「まだ大丈夫」というバイアスに支配され、最前の行動が取れなかったことが数え切れないほどあります。
「予想通りに不合理」を読んでみようと思った。
アリエリーの本読んでください!
今日の話を聞き、チャッターと言う本を思い出した。これもまた思い込みの話であったため、先生にも呼んだことがなければぜひ読んでもらいたい
ありがとう。面白そうですね。早速ポチりました。スーザン・ケインが推薦文を書いていることに惹かれました。
意思決定の分野において、「いい」選択という表現が、そもそも定義しにくいものなので、なかなか科学的に発展するのが難しいと感じた。
いろいろな立場(=定義)の「良い意思決定」があることを明らかにしておくことが第一歩です。
意思決定のミスとして紹介されていたUSS Vincennesによる航空機撃墜事故だが、自分はミスではないと思った。戦争中であったことを考えると航空機を飛ばす判断が誤りであり、そもそも戦争を始めたこと自体が人間の意思決定の誤りだろう。一度戦争を始めた状況においては、民間機と区別の付かない航空機が観測されようものなら迷わず撃墜して然るべきと思った。
私も「ミス」ではないと思いますが、もしも授業の中で「ミス」と言ってしまっていたらごめんなさい。訂正します。意思決定が重大な結果を招く例、として紹介したつもりです。
キューを選択しているときに時間を消費してしまっているという観点から見れば、少ないキューから判断することが合理的になることもあるのでは?
限られた時間で得られたキューのセットが、ある程度以上の診断性と信頼性をもったものである (=役に立たないキューばかりでない)という前提であれば、そうですが。
代表性ヒューリスティックと可用性ヒューリスティックの話を聞いてまさに数学の問題を解いているときの自分だなと思った。 自分は数学の問題に対峙した際に、できるだけ最適の解法を選択するために過去の経験などから解法を探そうとする(代表的ヒューリスティック)が、たまに面倒で最初に思いついたものでゴリ押しをしてしまう(可用性ヒューリスティック)ときもあるなと思った。
興味深い例ですね。心理学、特に今回の話題は私たち自身に関する話題なので、このように普段の自分に当てはめると理解が深まりますね。
行動経済学などの文脈では、人間の意思決定は「合理的」ではないとされているが、そもそも「合理的な意思決定」が良い意思決定とは言い切れないということは非常に興味深く感じた。
人間が認知的負担が小さくなるように行動するのはある意味合理的な選択かもしれない。
意思決定は毎日、小さいものから大きいものまで何度もしているが人間が怠け者だから合理的な判断が出来ないのは身に染みて理解出来た。
私は、人間は確証バイアスやアンカリングヒューリスティックなどの影響をよく受けていると思うのですが、やはり合理的な選択をしたいとよく感じます。質問ですが、合理的意思決定を考えるときに、期待利益の中に競馬などをすることによる楽しさなどを内包することで、競馬や宝くじなどのギャンブルをすることも合理的な意思決定といえるのではないのかと思いました。
「合理性」という単語そのものを考える必要があると私は考えます。伝統的な経済学における合理性は経済的(金銭的)な期待損益を最大にすることであると理解しています。それに対して「人間は(そのような意味では)そんなに合理的でない」と意を唱えたのがカーネマンをはじめ行動経済学の人たちです。一方「生物としての生存のために最適な選択」という「合理性」も存在しうると思いますし、心理学、特に感情の研究をしていると、人間は「(社会的動物としての)生存のために最適な(合理的な)選択をしているな」と感じることは多々あります。
「期待値が合理的選択である」という前提で宝くじやギャンブルは期待値が負であるから不合理であるとしていたが、期待値が合理性を発揮するのは大数の法則が適用される程度には再現性が確保されている状況であり、宝くじをそれなりの回数当たるほど大量に買う人は居ないため合理性を謳うには不適当であると思った。再現性が確保出来ない状況での有力な代表値はまさにプロスペクト理論でいわれるような価値や確率に対するバイアスを加味した期待値であるかもしれないが、授業で「良い」とボカしていた基準の定義としてなにを採用するべきかという話になるように思えた。たとえば、再現性のない状況(収束による確率の代表値化が出来ない状況)での「人々の感覚に合う判断基準」というのは1つの合理性の形であるように思う。
はい。ギャンブルの話ではあくまで「経済的な期待損益最大化」で誤魔化してしまいましたが、実は感情的な興奮など「貨幣価値に換算するうまい尺度のない、それでも存在する『損益』」を組み込むべきだと思っています。今は一緒に(例えば「円」単位)で計算できないから、「バイアス」って言って片付けちゃってるんですけどね。
先生がご飯を何食べるか決める時は、意思決定の分野に知見が深い人として合理的に決めれていると自信はありますか? また、自分はとても優柔不断なので、どのようにご飯を決めているのかを教えていただけると嬉しいです!
気分で決めています。毎食合理的にキューを集めて仮説を立てて、みたいなことをしていたらたまったものではありません。それを「なんとなく」決められるのが感情の重要な役割です。だから私は感情に興味があるのです。
授業の中で疑問に思ったのは、専門家や熟練者がしばしば自信過剰になりがちである点です。その結果として、必ずしも”良い“意思決定が行われない場合も少なくないのではないでしょうか。このような背景を考えると、専門家の意見は果たしてどの程度信頼すべきなのか、改めて考えさせられました。
はい。Over-confidence bias (自信過剰バイアス)として紹介したものですね。
「良い意思決定」の一つとして、熟練者の意思決定というものがありましたが、その意思決定が良いと判断される根拠は、それの期待値やもたらす結果が好ましいからであると考えれば、それもほか2つの「良い意思決定」の一種と言えるのではないかと思いました。
「熟練者は良い意思決定をするはずだ」という暗黙の前提のものです。その「良い」がそのどちらかではないか、と言われればその通りな気がします。
なかなかテンポが早かったのと、情報が多くて少しむずかしかった。人間の判断には思った以上にバイアスがかかっているということは理解できたと思う。
ごめんなさい。この回はしゃべりたいことが多すぎて、つい詰め込みがちになってしまいます。反省します。
さて次回からは認知のステージを離れ、認知プロセスの最後のステージである「行動選択」について考えます。ミニ実験もします。お楽しみに!