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静けさの漂う室

3月も中旬に差し掛かり、冬と春とが反復横跳びする季節がやってきた。今日はスプリングコート出しちゃうもんねと思った翌日に厚手のヒートテックを引っ張り出すことになったり、北海道で大活躍したスノーブーツを段ボールに入れた途端季節外れの雪が降ったり。春に浮かれた心が、次には寒さに凍えたりして。人も季節もなんだかシーソーの上にいるみたいでグラグラしている。
そんな季節に思う存分振り回されて(特に低気圧に)「早く春になってくればか〜〜〜!」と呪いの言葉を叫びながら浅い呼吸を続けるしかない日もある。例年そんなもんだからと体調不良も受け止めているけど、今年は体がつらい日でも行きたい場所がある。いや、つらいからこそ行きたい場所ができた。

2月初頭から、茶道を始めることにした。
理由は色々あるけど(今は書けないものもある)一番大きいのは、静けさを楽しめるようになったから。3年前にフリーランスになって、一人の時間がとても長くなった。最初は家でずっと絵を描いているのがちょっと落ち着かなくて、外に飛び出したくなったり息が詰まるように感じることもあったけど、だんだんとその暮らしに楽しさを見つけるようになった。
例えば、冷蔵庫の中にあるものをうまく組み合わせて料理を作ってみたり、今日あった楽しかったことを思い浸ってみたり、下手なりにネイルにこだわって塗り方を研究してみたり(でも成果は出てない)。音がない"静けさ"というより外からの刺激のない"静けさ"が漂う暮らしに、今は安らぎと楽しさと愛おしさを感じている。

茶道もそんな静けさが漂う文化だ。いってみれば、何もない畳が敷かれた空間。そこに掛け軸やお花を飾って、お茶を点てて飲む行為を通じて、そこにしかない経験を生み出す。
私の大学の先生は、畳二畳しかない茶室・待庵を”宇宙が広がっている”と表現されていた。実際に現地に訪れたときに、ちょっと先生が言っていたことは分からなかったけれど、きっと今なら分かる気がする。
茶道と茶室という建築に、今の価値観がするりと重なって茶道を始めてみようと思い至ったのだ。

茶道を始めてまだ2ヶ月も経っていないけど、その感覚はバッチリ合っていたと思う。もう、すでにお茶が大好きだ。
お湯がしゅんしゅんと沸く音、時折パチリと炭がはぜる様、庭先にみえる梅の花が散る美しい動き、トロトロに練られた濃茶のちょっと衝撃的な味、甘いお菓子をいただいた時のパッと花やぐような嬉しさ。
情報過多の日々で食傷気味な五感たちが、ゆるゆると揉みほぐされてのびのび楽しんでいる。静けさの中で感じられる喜びが、この部屋にギュッと詰まっている。
とはいえ、初心者中の初心者なのでお作法を覚えるのに必死だし、帛紗の畳み方がさっぱり分からなくて悲しい気持ちになって帰ったこともある。それでもお茶室を後にすると、どれだけささくれだった心も、凪のように穏やかで満たされている。低気圧でボロボロだった今日も帰る頃にはすっかり元気になっていて、帰り道に咲いてた沈丁花の麗しい香りに心打たれて少し泣いてしまうほど心が満たされた。ちょっと満たされすぎたかもしれない。

今もお茶の余韻を感じながら文章を書いてるけど、なんかこのポカポカしてほわんとした気持ちは見覚えがある。銭湯の帰り道だ。
冬の日にあっついお湯にしっかり浸かって、ポカポカしながら歩く寒空は幸福で楽しくてとてもとても気持ちがいい。少し、あの時の感覚に似ている。

茶道を茶の湯、ともいう。
お茶もお風呂も最初は”薬”として使われていた。今は求められているものは異なるけど、癒すという点は同じかもね。

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