虚構と現実のあいだに
その日はドア・トゥ・ドアで3時間ほど離れた祖父母の家を訪ねる予定があったので、本を鞄に突っ込んでから家を出た。
選んだのは角田光代さんの『キッドナップ・ツアー』。
たまたま私の本棚の目につきやすい場所に置いてあり、ほとんど直感でこれを持っていこう、と閃いた。
でも実は、この本の頁をめくるのはたぶん10年以上ぶり。最後に読んだのは小学生の頃のはずだ。
どんな話だったかしら。
午後の陽射しがあたたかい電車の中で、パラリと本をひらいてみる。
夏休みの第一日目、私はユウカイされた。
最初の一文を読んだ瞬間に、私はこの易しく軽やかな文体に魅了された。
読み進めてゆけばゆくほど、小学5年生である主人公の、不安定で、ちょっぴりシニカルで、それでいて純粋な心の機微が、使い馴染んだタオルケットみたいにさりげない温度を持って私の体に染み透っていくのがわかる。
そして、ときどき、ちょっとした文章が琴線に触れて、ほろり泣いてしまいそうになる。
「昔読んだ時はこんなことなかったなあ」
そう気がついたとき、この本を開かなかった10年と少しの間に、自分の心に何かが確かに刻まれていることを知った。
子どもの頃よりも歳を重ねてからの方が心に沁みる作品というものはしばしば存在するけれども、『キッドナップ・ツアー』もまさしくその類の小説だったのだ。
気がついたら夕日が車窓から差し込んで、手元の文庫本を金色に染め上げている。まるで自ら光を放っているような最後の頁をじっと見つめ、それからゆっくり目を閉じる。
私はすっかり満たされてしまった。こういうことがあるから、物語を読むことはやめられない。
ときどき、どうして人は物語を読むのだろうと考えるのだけど、その日自分にとっての答えが見えた気がした。
自分の世界と他者の世界が融けあう感覚が好きだからだ。
これはフィクションだ、という前提で読んでいる中に、生身の実感のこもった文章がにわかに現れると、「おっ」と不意をつかれる。そのたびに、物語の向こうに、作者というひとりの人間のリアルな世界が存在することに気付く。
極めて二次元的な文章の中に立体的に立ち上る、虚構と現実のせめぎ合いが面白い。
そして、物語の中でもとくに、児童文学を読んでいるときは、「ああ、核心をついているな」と思うことが多い。子どもでも簡単に理解できるような平易な言葉の中に潜む核心はときどき、私の心を無邪気に打つ。
たとえば、『キッドナップ・ツアー』にはこんな文章がある。久しぶりに会った別居中のおとうさんと一緒にファミレスに入り、主人公のハルが緊張を抱きながら探り探りの時間を過ごす場面。
何種類もの料理の写真がのったファミリーレストランのメニューは大好きだ。なんていうか、いろんなことが全部うまくいく、そんな気持ちになるのだ。こわいこととか、心配なことが、色とりどりの料理の陰にすうっと消えていってしまう感じ。ならんだ料理の一つ一つをゆっくりながめていく。
なんてさりげなくて、的確な文章なのだろう。
私も小さい頃からファミレスの、完全無欠な安心感に幾度となく救われてきた気がするのだが、それは無意識のうちにあるもので、言語化されたことはなかった。
こんな感情をさらりと、書いてしまえる角田さんはすごい。しかも、小学5年生の女の子「ハル」の一人称視点で。
ただ、私がここで面白いと思うのは、本当の小学生からはおそらくこんな文章が生まれない、ということだ。色んな心の機微を経験してきた「おとな」でなければ、こんな文章は書けないと私は思う。子どものフィルターを通した、おとなの言葉。逆に言うと、おとなだから描ける、ゆるぎない子どもの頃の感覚。
自分が子どもの頃からずっと言葉にできていなかった感覚を「子どもの言葉」で表現してもらうと、自分の世界が再構築されるような気持ちになる。
それはまるで、まだ自分の中に微かに残る幼い自分が呼び起こされたかのように、あるいはずっと埋まらなかったパズルのピースがパチっと嵌ったかのように、不思議で、心地よくて、刺激的な体験だ。
デジャヴュに近い、意識と無意識の狭間にあった感情が、刹那にくっきりと浮かび上がってくる感じ。
こういう感覚に出会いたくて、私は物語を読むのだなあ、としみじみ思う。
そんな感覚をもたらしてくれた物語を、あとふたつご紹介します。
まずは椰月美智子さんの『しずかな日々』。
この物語は、大人になった主人公「光輝」が、小学生のころを回想する形式で語られる。
影の薄い子どもだった光輝は、人気者のクラスメイト、押野と仲良くなることをきっかけに、大切な少年時代を過ごした。
私が好きなのは、光輝が当時居候していた祖父の家(これがまた歴史ある日本家屋で素敵なのだが)に押野が遊びに来て、一緒に雑巾がけをした後に麦茶を飲むシーンだ。庭に出てコマーシャルのように麦茶を飲む押野を見て、光輝はこう描写する。
真っ黒に焼けている押野の顔。
腕や足の細かい産毛がが金色に光って見える。
本当になんてことないささやかな描写だけれど、小さい頃の記憶って、何故かこういう細かくて変な部分を覚えてるものだよな、と私はやけに心を打たれた。「産毛」というところに実感があって良い!
もう戻らない子ども時代のキラキラとした夏の光と、産毛が見えるほど近くにいた親友との思い出のかけがえのなさがリアルに伝わってくる。
森見登美彦さんの『ペンギン・ハイウェイ』も、小学4年生の少年のお話で、大人になってから読むと不思議なせつなさで胸が張り裂けそうになる。
主人公のアオヤマくんは研究が大好きで、毎日の発見をノートに記録している。彼は小学生にして結婚相手を決めていて、それは歯科医院のお姉さん。そんな彼がお姉さんの部屋でスパゲティをごちそうになり、昼寝をするお姉さんの顔を眺めるシーンが、私は泣きたくなるほど大好きだ。
彼女の顔を観察しているうちに、なぜこの人の顔はこういうかたちにできあがったのだろう、だれが決めたのだろうという疑問がぼくの頭に浮かんだ。もちろんぼくは遺伝子が顔のかたちを決めていることを知っている。でもぼくが本当に知りたいのはそういうことではないのだった。ぼくはなぜお姉さんの顔がなぜ遺伝子によって何もかも完璧に作られて今そこにあるのだろう、ということがぼくは知りたかったのである。
ぼくはそのふしぎさをノートに書こうとしたけれど、そういうふしぎさを感じたのはノートを書くようになってから初めてのことだったから、うまく書くことができなかった。ぼくは「お姉さんの顔、うれしさ、遺伝子、カンペキ」とだけメモをしておいた。
私たち人間は紛れもなくただの生物であるけれど、ふだんはあまり自分を生物だとは意識せず、思考し、非常に理性的に生きている。けれど、人を好きになったり愛しいと感じたりする心のうちには、極めて無意識的で本能的な神秘が眠っている。『ペンギン・ハイウェイ』は、この神秘を読者に苦しいくらい無邪気に突きつけてくるのだ。私たちは解明できない心のせつなさに気づく。しかしこの作品は同時に、私たち人間は原始時代から等しくこのせつなさを分かち合っているのだと優しく肯定してくれる。森見さんもきっとそんな人間の性質を愛しいと感じ、筆を執ったのではないか。
生身の人間が感じたことを物語の形に昇華し、それに触れた他人がフィクションの中から生の声を掬い上げ、自分の日常に還元し、その過程でまた物語が生まれる…そんな物語のサイクルは、大地から蒸発した水が雲をつくり、雨となってまた大地に還っていくような、自然の摂理と通じるものがある気がする。
私はれっきとした成人になってから数年経ってもなお、まだ自分のことをどこか「大人」だと思えないでいる。
けれども、歳を重ね、心にたくさんの引き出しを積み重ねてきたことはたしかだ。
物語は、長年ほうっておかれて錆びついた、あるいはまだ開かれたことすらない心の引き出しをふいにこじ開けてくれる大切な鍵だ。