逆説の日本史4 中世鳴動編(井沢元彦、小学館文庫)
ちょっと、頭の体操。
中世日本と現代日本の酷似について。
逆説の日本史の中世鳴動編の「穢れ」に関する記述を読んでいて想起したのだが、穢れの概念は、コロナ禍そのものだ。
この「禍」という言葉の用法もまさに降りかかってきた天災のような独特の表現だが、まさに、穢れの定義の中にこの語が使われている。
井沢元彦は、中世編の執筆にあたり、手を替え品を替え驚くほどの紙幅を割いて、この「穢れ」について解説している。
以下は、「国史大辞典」による定義を孫引きとなるが、引用する。
穢れ(p300)
「穢れはまた罪とも同一視され、それも未開や古代の社会では全く物資的に考えたもので、何か悪霊の仕業による禍または災とし、これを隔離し排除する。すなわち罪も禍も過も皆同じく穢れで、悪霊の仕業と考える。
(中略)すなわち死人と血の穢、きたない病気や腫れ物など、(以下略)
そして、井沢氏は自身は、穢れに言及される際、「これは意見ではなく、事実だ」と断言されている。
私は、コロナ禍は、「穢れ」そのものだと思う。
粗がある見方なのは承知の上であるが、コロナを「穢れ」と考えると、フィットする。
ここ数年の、科学無視、右往左往するばかりの、一連のコロナ禍対応は、穢れを忌避したかつての日本人の姿そのものそのものではないか。
そして、そんな禍は「隔離」し、「排除」する。
目には、見えない「何か禍々しいものが社会を覆っている」ので、それを取り除かねばならない、と言う発想は、平時なら、実に非科学的で、嘲笑すらされそうだ。
社会が、忌避し、隔離し、排除せねばならない「何か」。
会話の際に、マスクや、衝立を使って、飛沫の拡散を物理的に防がなくてはならない「何か」。
会社、店舗、学校、全てにアルコール除菌のボトルが設置され、ほぼ常時と言って良いほど除菌しても、除去しえない「何か」。
分子生物学の分析手法であるPCRを日常的に検査に用いて、陰性反応が出るまで、恐怖すべき「何か」。
この「何か」に当てはまるのは、コロナウイルスであり、穢れだ。
そもそもニュースを見ないので、コロナ禍をめぐる諸々が、当たり前の前提になり過ぎているので、あえて、そんな空想をしてみた。
話題が膨らみそうならまた書く。
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