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敗戦の日に日本語を思う

3年前の2019年8月15日にFacebookの「ノート」に残したメモを元に、明日の「敗戦の日」のためにここに再掲します。

この手の議論は実は慎重にしないといけないことも分かっています。自分は日本語がダメな言語だと決めつけるつもりはないのですが、ある局面では性能が悪すぎると思っています。例えば、責任の所在を明らかにするという状況ではまるでダメです。確かにそれは日本語の性能のせいだけではないのかもしれない。国語教育のせいだと言えるような現象も見出せます。

少なくとも、これまでの国語教育では誰が読んでも誤解なく分かりやすく伝えるにはどうするか、ということは非常に軽視されていて、過去に書かれた権威筋の「美しい文」とされてきたものに親しみ、正しく解釈することが非常に重視されています。つまり書き手の書く技術ではなくて、読み手の方の理解する力(読む力)を磨くことに圧倒的な時間を割いています。欧米の価値観では、時間をかけて慎重に検討しなければ理解できないような文章は悪文というべきであり、むしろ書き手が正確に自分の意思や意図を伝えるための力をつけさせる方を優先させます。欧米の教育では、もちろん詩を書かせたり味わったりすることで、分かりやすく伝えるための力だけを身につけさせている訳ではないのですが。

ではどうして日本の国語教育は現状のような極端な状況になったのか。そこには国民性というか日本語運用者のクセというか、日本人のメンタリティーの反映がやはりあると思います。伝える側の技術ではなく、受け手側の技術を重視するというのは、発信者の気持ちを慮って理解してあげる能力、つまり忖度できる想像力の方が大事だという意味です。

鶏が先か卵が先かの議論になってしまいますが、日本語は日本人のメンタリティーにとって非常に満足できるツールとして機能していますし、日本語がそのようなものだから、日本人のメンタリティーが今のようになったのかもしれず、どちらが原因でどちらが結果なのかを断定することは難しいです。でも少なくとも、日本人が団体行動をするときに、その行為の発端の責任がどこにあるのか分からないように曖昧にするには、とても便利に機能してきたということは否定できないでしょう。つまり言語のあちこちに「逃げ」の余地が残されているのです。日本人の大好きな連帯責任という社会的コンセプトというものにも、この曖昧さはとてもよく応答した言語となっています。

日本語に主語がない理由というのには根深い歴史的事情があって、おそらく日本人の他者への共感能力とも関係があって、心理的に自他の区別をしない、他者(二人称)の立場で物事を見たり感じたりしようとする態度と何か大きな価値や意味があったのだと想像しています。こうした「たくさんの二人称」との一体感、つまり自分と身内との区別なき一体感というのは、農作業や狩り、そして戦さのような、集団で協力しあって行動するような際に非常に大きな力を発揮した可能性があります。

その名残は例えば、一人称や二人称の呼称の多様さや、その二者間での混乱の中にも見出されると思います。「手前(てまえ、てめえ)」という単語が特にその傾向が著しく、文脈によっては一人称(自分のこと)になったり二人称(あなたのこと)になったりします。例えば大人の女性が男の子に向かって「あなた」の意味で「僕」と呼ぶことができること(「僕はどこから来たのかな?」のようなケース)などにも、人称を相手の目線で自在に置き換えてしまえる現象の一つだと考えられます。欧米の言語では「I」と「You」が、このように話者の都合で自在に置き換えたり、混同したりする余地はほとんど考えられないほど、混乱なく明瞭に区別されていて、その明快な区分けこそ、「自他」の誕生だった(あるいは「自他」の誕生と言葉の発生が同時だった)可能性があります。

どのようなものにも一長一短はあって、日本語のこのような曖昧さというのは、共感力の豊かな日本人の読者にとっては、魔法のような美しさを持った芸術として機能する面があるかもしれません。主語がない「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」というような文学における詩的表現というものは、日本語の主語の存在しない曖昧さが成せる技かもしれないです。

でもその日本語は国家運営とか組織運営という局面では、誰が考えたのか分からないアイデアや最終的に誰が責任を取るのか分からないような曖昧な連帯責任社会(逆に言えば、誰にも責任がない社会)の出現を許し、莫大な損失や死傷者を出すような愚挙さえも止めることができない言語である可能性が高いです。もっとも戦争は日本以外のほとんどの先進国が体験しているものなので、「日本語が戦争の原因である」と言うことはできないですが、いざそのようなことが起きても、それを効果的に止めたり被害を最小限に食い止めたりする手立てや、その後の責任追求ができない(従って同じ間違いを何度も繰り返す)ことの理由の一つにこの言語とその運用者の問題があるように思えます。

翻訳を生業のひとつとして四半世紀に渡って携わり、言語とは深く付き合って来たものの、言語学の専門家ではないので、不正確なところの多い乱暴な記述になったかもしれませんが、日本語はこのような逃げの余地を持つことによって、日本という国を「卑怯者の天国」たらしめ、狡い人間が多く生き延びて繁栄して来た原因のひとつとして存在しているのは確かなことだと考えます。

ではどうしたらいいのでしょうか。日本語であっても書き手次第で、責任の所在を明らかにすることも、自分の明確な意思を表明したりすることも可能です。「美しい日本語」の追求だけではなく、「明らかな日本語」の追求を心掛けることも、「説得力のある日本語」を目指すことも、個人のレベルならいくらでも可能です。それを敗戦のこの日を機に、心を新たに自分に課していきたいと考えます。

2019年8月15日(2022年8月14日加筆)

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