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コメニウスの「教育書」の謎

17世紀に書かれたJan Amós Komensky (Comenius): Orbis Sensualium Pictusという図版に富んだ本がある。これについて書く。

コメニウス(コメンスキー)は、大雑把にはポーランド(モラヴィア)出身の「教育者」として知られている人物である。16世紀末に生を受け1670年に死去している。中欧全土を巻き込んだカトリックとプロテスタントの長い争いは今日「30年戦争」として知られているが、彼はまさにその渦中にあったのであり、そのために故郷を追われ、ついに帰還することは叶わなかった。彼は女子教育の必要性を説いたことでも知られていて、近代教育の祖のような横顔を見せる面がありつつも、彼の「子供向けの教育書」と呼ばれるものは、教科書という体裁を採った、まったく別物の役割を持っていたのではないかと邪推せざるを得ないようなインパクトさえ持っている。

世界図絵: Orbis Pictus』、別名『目に見える世界図絵』(Orbis Sensualium Pictus)は、子供向けのラテン語の教科書、兼百科事典のようなものであるが、一定の知識を持った大人の目には複層的に映るのではないだろうか? とりわけ秘教的書籍に引用されるこのイラスト(本記事のメインビジュアルを参照)はかなり有名なもので、いわゆる「合判」のような数字が図中に記されていて、その数字ごとの説明が本文で展開される。だが、この数字はまったく別の意味として解釈が可能である。それについては他の機会に書くこともあるかもしれない。とりあえず件のページを見開きで掲載しておく。

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C. MacNamaraというコロンビア大学のファカルティーの書いた記事においても、この書物は「目に見えるもの」を説明すると言いつつ、むしろ世界に於ける「目に見えない部分」にこそ焦点を合わせているようだ、と評している。

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MacNamara氏が書いた通り、この書の冒頭(上の写真)では、「学ぶとは何か」ということを先生が生徒に教える場面が出てくるが、それはまるで(タローカードにおけるマギのような)通暁者、すなわち「マスター」が「師弟」に奥義を開示するかのようなシーンとなっている。マスターは太陽を背に「師弟」の前に立ち、その光線は頭を貫き、子供に注がれようとしているようにも見える。マスターの「賢くなるために学ぶのだ」という言葉に対して、「賢くなるとはどういうことなの?」と不安そうに子供は尋ねる。それに応えてマスターは重要な教えを説く。MacNamara氏によれば、「正しく理解し、正しく振る舞い、正しく話すこと。それが賢くなるということだ」などというマスターの教えは、およそ現代の子供向けの教育書に相応しくないかに聞こえるとのことだが、それが冒頭に持ってこられなければならないほどの重要性を持っていたことに疑いはないだろう。

不幸なことに、われわれはついぞ「何故に学ぶのか」という学問や学習について極めて本質的かつ核心的な部分について、正しくマスターよって教え導かれることはなかったではないか?(もしそれを教わったことがあるというなら、それは極めて稀なことであり、幸運なことだ。)

それにしても、「正しく理解し、正しく振る舞い、正しく話すこと」以上に、必要なことが我々にあるだろうか? これはブッダが涅槃に至るための方法として弟子たちに説いた「八正道」のうちの3つ、すなわち「正見」「正命」「正語」に通ずる教えのようにも聞こえる。そしてそれらが、われわれにとって極めて行なうに難しいことであることが前提となって、冒頭で断る必要のある内容であったというわけだ。
 


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