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人生ブランコ11月7日「放送作家になった話」for マイナビ

 51歳である。
 半世紀を生きてきた。長いこと放送作家として飯を食ってきたが今はSNSの運用代行、早い話が企業のアカウントのためにショート動画を作り、集客の一助を担っている。

 もう、お気づきかと思うがSNSの運用代行などついこの間まで存在しなかった仕事である。若い人はともかく50過ぎのおっさんが今、SNSで飯を食っている。

人生のモットーは「やってみないと分からない」だ。大学時代、もれなく将来、自分は何の仕事をすべきか悩んだ。表現をすることに憧れ、地元の岩沼市(仙台市のちょっと下の町)には文化的な楽しみが少ない、早く東京に出たいと考えていた。大学では演劇部に入った。入部初日には当時、28歳で7年生まで留年したのち、卒業した先輩H田さんに連れられて初めて本格的な演劇を観た。「大駱駝艦」の公演である。(大駱駝艦は麿赤児さんが主宰する白塗りの舞踏集団である)「こんな世界があるのか!」と田舎から出てきた僕は衝撃を受けた。明らかにテニスサークルとか、スキューバダイビング部とは違う、アングラ世界に触れ、心が躍った。「ああ、これこそ求めいた世界!」と喜んだ。ただ、入部して1年も経つ頃には演劇を作る共同作業は楽しいけど役者としての才能がないこと、何より食っていける職業ではないことにはすぐに気づいた。

 1年生の夏にひとつ出来事を体験した。当時、父親が沖電気という会社を辞めて独立をした。いわゆるベンチャー企業ってやつだ。そのために夏休みに親父の会社で経理と営業を任される羽目になった。実家に帰ると「名刺、作っておいたから」と渡す父。僕としては親に学費を払ってもらっている身でもある。言われるがまま、父と兄を含め社員4名の会社で1か月働くことになった。今で言えばインターンのようなことかもしれない。当時はそんな言葉や概念もなかった。僕は経済学部だったので多少の知識で貸借対照表とか、損益計算書を作っていた。さらには当時、普及しだしたポケベル、CD自販機という全く流行ることなく消えていった商品、あと自動で保存してくれるホワイトボードの営業に行った。

 全くの営業リストもなく、完全なる飛び込み営業だった。ただの大学生で知識も経験もないけど、とりあえずやった。今、思えば学生が営業に来たことで面白がってくれたのか、とあるホテル企業の担当者が話を聞いてくれた。他愛もない「なんで自分がこんな営業をしているのか?」そんな話で終わった。それを会社に帰ってきて報告書を書く。親父にしてみれば案件を取ってきてほしいとは微塵も思ってないことは今ではよく分かる。息子である僕にサラリーマンの仕事を経験をさせたかったのだろう。もっと言えば仕事の魅力を感じさせたかったのだろう。

 人生は皮肉なもので生憎、親の思惑とは真逆の道へと進むことになる。この時の経験で僕はサラリーマンはもうやりたくない決意をもたらした。当時、最先端のWindows3.1に触れ、Lotas1.2.3にも触れた。なんかテクノロジーが進んでるなとは思ったが、インターネットには触れなかった。今振り返れば、ここで触れてたら人生も変わったかもしれない。わずか1か月の体験で仕事の何が分かるんだって話ではあるが、サラリーマンは嫌だと思ってしまった。才能があるかどうかは分からないけど、自分の好きな道で挑戦しないと後の人生で愚痴ばっかりこぼすのではないか?と。「あの時、挑戦すれば良かった」と言うような人生だけは送りたくない思った。

 大学2年生になり、演劇部の先輩が「島津、放送作家のセミナーがあるんだけどお前どうだ?」と教えてくれた。これは渡りに舟だった。半年程度で15万円掛かったがなけなしのバイト代で通うことにした。なんか素敵な出会いとかチャンスがあるんじゃないかと密かに思った。でも1,2回行って辞めることになる。というのもセミナーを教えてくれた先輩はその時、ナベプロ(後のワタナベエンターテイメント)にお笑い芸人として所属し、快進撃を続けていた。若手の登竜門のレッドカードというコーナーを勝ち上がっていた。(つまらないという札が上がると退場しなくてはいけない)先輩同士のコンビだったが、コンビを解散して次の相方として白羽の矢が僕に立ったのだ。「15万円払ったばかりなのに。。。」という思いと芸人の世界かと悩んだ。で、放送作家セミナーは辞めた。

 僕は急遽、お笑い芸人のツッコミをやる羽目になった。だが僕にはその適性はなかった。当時、ワタナベエンターテイメントには売れる前のネプチューンが圧倒的存在感を放っていた。さらにピーピングトム、げんしじんなど次世代を狙う先輩方も。僕は入ったばかりだが当時ホンジャマカ、ネプチューン、ピーピングトムといった面子と一緒に学園祭にも出向いた。(同期にTIMがいた)まあ、自分の実力はこれっぽっちもなく相方の先輩の実績に乗っかっただけであった。この時期は長く続かず、結局、3か月程度で辞めた。(ちなみにこの時の相方でもある先輩はその後、放送作家となり一時期はネプチューンの座付き作家や若手芸人にネタを提供。風の噂ではR-1王者のネタも書いていたと聞いた。)

 結局、振り出しに戻った。大学3年生の頃である。周りはリクルートで応募ハガキでエントリー出す時代だった。どうしていいか分からない時に一冊の雑誌に出会った。講談社から出ていた「Views」だった。そこには「テリー伊藤のテレビ局で仕事をしよう」という特集があった。

僕の人生を変えた雑誌、ボロボロだ
僕はこの人の番組を見て育った

  テリー伊藤になる前の伊藤輝夫名義での「お笑い北朝鮮」を当時、読んでおり、「天才たけしの元気が出るテレビ」「ねるとん紅鯨団」「お笑いウルトラクイズ」など僕はこの人の作った番組でどれだけ大笑いしたかと思っていた。その中でこの雑誌にはその裏側も書かれ、ますます興味が湧いたのだ。

令和ではありえない事件簿

 で、この雑誌の中で放送作家を募集しており、こう書いてあった。
「採用は随時。自衛隊と同じ。
  『面接の際、企画30本を出しておもしろければ合格。もちろんテレクラ実績は不可欠』と書いてあるではないか!!!
 僕はこれだ!と思い一度はセミナーで中途半端で諦めた放送作家への道が出来るのではないか?と夢想した。しかも採用は随時だ。いつでも行ける!
 企画書の書き方なんか知らないがネタみたいなもの書いた。30本書いた時には俺って天才じゃないかと思った。がしかし、翌朝冷静になると「これ、面白いのか?」と疑問が湧いた。「やばい、俺はまだ何の就職活動もしていない。このままじゃ落ちるぞ」焦った。

 その時、また演劇部の別のT先輩が最高の情報をくれることになる。「島津さあ、今テリーさん土曜日の朝にラジオやってるの知ってる?」と教えてくれたのだ。当時、有楽町にあるニッポン放送で「天才テリーの芸能ダマスカス」という番組を朝8時からやっていたのだ。

 僕はこの時、一つ閃いたのだ。それは・・・
「相手も人間だ!人情で売れば何とかなるんじゃないか?」
 そこで僕は番組宛てに芸能ネタのハガキを送ることにした。確か「TOKIOの山口はデブなのにアイドルなんだ」とかそんなものだった。当時の伊藤さんは「やっぱりアイドルってさあ、完璧じゃないほうがいいんだよ。ちょっと守ってあげたいとか、ダサいセンスを変えてあげたいぐらいがいいんだよ」とコメントしていたと思う。いずれにしろ、ハガキが読まれたのだ!
 僕の作戦は狙い通りだった。何よりラッキーだったのは土曜日の朝8時のラジオ番組だったこともある。ハガキを募集するコーナーなどないけど勝手に送り付けたのだ。これがもしオールナイトニッポンならばライバルが多すぎて読まれることになどなかっただろう。けど、土曜日の朝7時から大学生が起きてるわけもない。ライバルがいないのだ。この時、「道がなければ自分で作ってしまえばいいんだ」という体験をした。

 それを何週間か続け、「また、島津から(ハガキが)来たな」と言われ、名前を覚えてもらったところで今度は顔を覚えてもらおう!と書き直した企画書ひっさげて、有楽町で出待ちをした。念願の伊藤さんに会え企画書渡すと「おお、島津かあ!読んどくよ」と言って去っていった。

 2週間後ぐらいだろうか、企画書の返事が欲しいとそわそわしていた僕はまたラジオ局へと朝8時から出向いた。ラジオを聴いていると、「この後私は青山の円形劇場に3時から観に行きます!」という内容を聞いた。この時、会えずじまいだった僕は観劇するという情報にすがった。まだ、ストーカーという言葉もない時代だがやってることはストーカーだった。

 15時に今なき青山の円形劇場に当日券を買っていった。青山円形劇場はその名の通り、舞台も客席も円形になっている。おまけに当日券で来たものだから一番奥の席で回りが全部見渡せる席に座ったのだ。
 「これなら伊藤さんがどこに来ても見えるぞ!」と僕はほくそ笑んだ。だが肝心のテリー伊藤さんの姿はどこにもない。「こ、これは騙されたんじゃないか?」と思ったその時だった。開演を知らせるブザーが鳴ると、入り口に伊藤さんがニッポン放送のアナウンサーとやってくるではないか!一体、どこに座るのか?ずっと遠くから凝視をしていた。すると、、、あれ、あれ、あれという間に通路を挟んだ僕の横に座ったのだ。奇跡が起きたと思った。で、すかさず「先日、企画書を出した島津と申しますが」とあいさつをすると「おお、島津かあ。金になんないけど来いよ!」という言葉をもらうことになる。この後、本当に金にならない1年目がスタートする。時給で言えば90円とかそんな生活。この時、大学4年の春を迎えていた。

 僕はその後、先輩の放送作家が逃げるという幸運に恵まれた(裏を返せば他の諸先輩方は悪いからTディレクターだけは付かない方がいいとアドバイスされていたが、あえて地獄を選んだ。その時、チーフ作家のそーたにさんの下で修業が詰めることにもなる。禍福はあざなえる縄のごとしだ。)こうして大学4年生の7月に出動!ミニスカポリスというさとう珠緒ちゃんが出演していた番組でデビューした。25歳までに同級生と同じレベルまで稼げないようなら辞めようと思ったがそれもクリア出来た。先のことなど、何一つ見えないまま突き進んだ。

 時は流れ、2008年、やがて放送作家の生活も慣れだしたころ妻が大学教授だったこともあり、子育てのためにドイツに行くことになった。仕事をバリバリやってた頃だ。年収は1500万円にも届きそうだった。でも全部の番組から降りた。まさか自分が専業主夫となり、ドイツで子育てをする!なんて人生のどこにも予定してなかったが約2年もの間、過ごした。この時の体験がきっかけで世界の異文化に触れる喜びを知り、「ネプ&イモトの世界番付」や「未来世紀ジパング」など世界の情報を扱う作家へと変貌を遂げた(挙句、今ではガチ中華の世界にどっぷりハマっている)2014年にはそんな妻とも離婚をする羽目になる。

 で、今は新しいパートナーの支えもあり、SNSの運用代行で食えるようになってきた。人生がどうなるかなど想像はつかないが、今の自分は過去の自分が作っている。当たり前だ。いっぱい挑戦していっぱい失敗を重ねてきた。若い人に偉そうに言えることは何もない。ただ、自分の人生だから自分で責任取るしかない。それだけだ。放送作家は昔から「40歳定年説」というのがあり、大人になってからも随分、この先どうなるのか?と不安になった。というか今でも先が読めない。目先のことにベストを尽くす以外の道は知らない。基本、超ポジティブに生きてるがもちろん、僕も鬱っぽくなったこともあった。その時のベストは休むことだったりする。(この辺は今やみんなコロナを経験してるからもはやあるあるだろう)。

 この先もまだまだ想像しないことが起こるんだろう。
 で、今は映画の企画書を書いている。何が起こるか分からないよ。まだまだ挑戦は続くよ。80歳の俺よ、どうなってる?

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島津秀泰(放送作家・動画制作・インタビュー・文章作成)
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