はじめに

 はじめに

 あまりにも眠く、何度も目を擦りながら時計に目をやるともう譜面を書き始めてから三時間半ほど経っていて、音楽を生業にしてからは、十余年が過ぎていました。
 令和四年が明けてすぐの頃、この「はじめに」を書き始めて、何にしてもこれが皮切りになるわけだから、と逡巡を重ね、のらりくらりと書き連ねてしまった四千字ほどを、たった今きれいさっぱり範囲指定して削除してやりました。やっと僕も、ちゃんとした気持ちで書けるようになってきたようです。
 手書きかタイピングか、最近の芥川賞受賞作品はスワイプ入力された物まであるそう。それが世の変容であり、時代や思想や理想、どのどちら側に重心を置いていても、流れに任せていつでも身をかわせるニュートラルな状態を保つことが本読本の根本にある目的です。そのために時に抽象的に、時に窮屈なまでに具体的に話を展開し、脳みそ全体に留まらず、精神や実際の生活の時間に至る頭の体操をやってみようかなという、細やかな試みです。
 タイトルからして『演奏読本』とは大見得を切ってしまいましたというか、軽率というか、作文の練習も兼ねていることをさっさとここに白状し、まずは概要についてお話します。
 リンクを駆使し、枝分かれするテーマを辿れるように、大ごとになり過ぎない範囲で、しかしなるべく広く展開していく予定です。何ができるか、未だ見えていない部分も多くあります。
 また、公開(提案)する媒体はテキストだけでなく、動画や音声などを用いてみたり、とにかく使えるものは使って、音楽の幹を一本ここに植えてみようと思います。また、そこには僕の身体性が介在しないことが理想です。著者ではありたい(それ以前に、いつでも書き込みできるようにオケなんかで弓と一緒に鉛筆を持って弾いているオッサンがいますが文筆というスタンスではあんな一チェリストでありたい)ですが、この読本によってもたらされる利益のようなものは、僕自身にとっても、今後現れれば喜ばしい"熱心な読者"の方々にとってと同等価値程度のものだと思われます。読者はアンチでもいいです。楽器の演奏を始めてみたものの路頭に迷える仔羊や、独自のスタイルを既に確立されていて、隣近所の庭がどんなふうに手入れされているのか覗くような感覚でも構いません。とにかく僕自身が、さらに音楽を追求するために頭の中を絞っていく、生クリーム搾り出すやつみたいなかんじの場所にしたいと思います。

 見様見真似ではありますが小説やエッセイを書き始めてみて、またありとあらゆる読本に親しみ、物事をようやく精密に考え始めました。これまで安易に感情に腰を下ろしていた自分に気がついて、近頃は必要があれば自ら選んで事実の上に身を置いて理論の起点を追うことの大切さにも気がついたところです。
 具体的な要点を端的な言葉に要約してしまうと、形骸化し定着してしまうおそれがあります。「××音楽教室」のアカウントが140文字の中で一生懸命呟く世の中ですが、140文字で伝わるなら音大や学校、レッスン、この読本やましてや過去の偉人の著書にすら、意味がなくなってしまいます。これらは、外来文化を受け止める素養のために、吸収しておいたほうがいいもの(はっきり言って、どの"ジャンル"でも古典を知らない、つまりルーツや系譜を追うことのできないミュージシャンは自立して音楽できていません。商業的に売れていたとしても)ですが、「140文字でワンポイント」が日々の創意工夫になっている教室運営に忙しそうな人は、大抵そういうものは読んでいなさそうです。呟きを追いかけてみても、斜めに読んだか、せいぜい一、二回程度読んだだけだろうということが多い。正直に言うと、読んですらいなさそうな人の呟きのほうが多い。
 しかしそんな人たちは業界の過疎化を前面に訴え、初めはほんとうは「自分が食べていくための工夫」だったものがいつの間に、本人も無自覚のうちに「クラシック音楽界の裾野を広げていく」というありきたりな大義名分にすり替わってしまいます。これが現状では一番の日本クラシック音楽業界においての危機だと思っています。本質を知らない人間が、どうして他方にその魅力を解くことができるのでしょうか。(あれ、後頭部にブーメランが…)
 ではなぜ、今こうして僕自身文字におこしているのかと言えば、そもそも「芸術」そのものが文学(或いは文章)と切り離して考えられるものでも、伝えられるものでもないからです。音楽や絵画などの美しさを文章で表すことはできませんが(できたら音楽も絵画も要らない)、それら並列で同時に飛び込んでくる情報の量、歪さ、そのバランスに一言があるのなら、反対に、情報の取り方として圧倒的に異なる時間を使う、つまり、直列の情報である文章の介在によって、叶う部分も大いに期待できるのではないかと思うのです。こちとら人生は短いし、藁をもすがる思いなのであります。
 文章、もしかするともっと言えば、文字からしか受け取れないものがあります。音や線や色にも同じことが言えますが、さらにその先の、人間としての本質的な部分について己と真正面から対峙する時、その音や線や色を実現するまでに既に用いている(ともすれば創意工夫を凝らしている)言葉というものを無視しては、いつまで経っても明瞭な指針を望むことすら難しい。大掴みな言い方をすれば、言葉を使わなければ楽譜を買うことも、読み方を教わることも、楽器の弾き方を習うこともできません。
 演奏家は音は基より、楽譜の中にある音符や発想記号、音楽用語など、さまざまな物に対して敏感です。それぞれの明確なイメージを持っています。おいそれとアイディアの湧かないフレーズに出会った時、その箇所を「難しい」と感じます。口にしてみたりもします。そういう逡巡を積み重ねる時間も、全て、言葉によるものです。
 だから言葉に対しても安易な判りやすさに逃げ込まず、少しだけ敏感になってきた感覚の手綱を何とか引き締めながら、僕自身音楽のことを考える場所にしていけたらいいなと思っています。
 言葉とは学校で習う「国語」のことや個々の勝手な思い込みによる歪曲された読解のことではなく、基礎に則って、例えば字引きを愛でつつ、とりあえず現行の文壇が見舞われている(らしい、としておきます)閉塞感やそれに抗う攻め手の著者を刮目し、終わりにくっついた「解説」に時には違和感を覚える。それは難しいことではありませんし、我々日本人は、寺小屋などで、全くその方法で読み書きそろばんから習ってきた歴史もあります。

 具体的な問題点をトピックとして打ち出し、解決策をワンポイントずつ提示していくこともできるでしょう。大抵の読本はそういう形式を以て読本足り得ているのも理解しています。ところが、物事の理解とは、そもそも、理屈では語れない無限の広がりを体感することで、その無限に枝葉の分かれる可能性の中に身を委ね、「こりゃあとてつもない量だ」とか「一昼夜にゃ判んねぇなぁ」となるのが、まず理解の第一段階だと言えます。
 判った!と安直に結びつくものはたんなる起点の一点に過ぎず、そこから理解が深まる場合も当然ありますが、それら攻略方法のようなトピックをお求めの方はまさかわざわざネットに転がる長ったらしい記事をここまで読んだりしないだろうと、たかを括っている部分もあります。
 技術論と精神論、耳にするのは当然どちらかに傾倒した格言になりますが、どちらも大切です。ただ、格言は格言です。格言が格言のままである以上、それは持ち続けていても何の役にも立ちません。占いじゃないですから。それよりも物事を考える上で大切なのは、常に、バランスです。その他のことは、そんなに必死に考えなくても、音楽が好きで演奏に臨んでいるのであれば、自ずと発生してくるものです。

 うまくなる方法、なんならコツや奥義を知りたくなるのは当然です。僕だって、ひゃくおくまんえん出したってそんな物があるのならばほしい。差し出すものが寿命の残り半分とかだったとしても迷う間もない。しかし、大切なことのまず第一項目は、格好良く言うと「レッスンワン」というやつですが、音楽に勝つとか負けるという性質はありません。マリオカートより、さらに平和なんです。

 自分の中には挑戦があるので常に燃えていますが、僕の場合身体を壊して体力が落ちて精神が落ち着くまでは煮えたぎって沸騰していましたので(その節はそれはそれは多くの方々の張り付いた顔をあちこちで目の当たりにしたものですすみませんでした)己の野心を他方の優れた演奏家への嫉妬心に代えてそれを燃料としていました。現場では時折、音の重ね方すら誤っていました。
 音楽だって人間同士のコミニュケーションなので、どうしても合わない場合もありますが、例えば結局僕はいったことがないけど「合コン」でちゃんとオモチカエリできるような、ひらけた明るい自分を持っておくようにいつでも意識しています。例えば結局僕は「昨日別れた」と言って呑んだくれる歳下の営業の男の子の話が面白くてその近くにいたサブウェイ好きそうな女の子と笑い転げていただけで終わってしまったけど、そもそもその街コンにいきたいと誘ってきたのは当時まだ××交響楽団に入団前のあるヴァイオリニストで、彼は僕の知りうる中でおそらく一番の新作ヴァイオリンに至るまでの銘器オタク、ソムリエです。
 途中で抜けてしまった僕とは違い、彼はオーケストラ奏者として演奏を続けています
 人間が同じものを積み重ねる時、当然惰性やどちらかと言えば毒素を増やして織り込んでいくことになりやすい。積み重ねるというより、堆積すると言ったほうがしっくりくるくらい。そこに吹き込む「新しい風」というやつは、自分がそう感じられるかどうかです。新年度に新しい制度や人事があると、お勤めが長い人ほど不満が先に出てきてしまうものなんじゃないでしょうか。『運命』だって、指揮者が阿呆なら、奏者である僕らにとって同じことです。
 また、大仰な「芸術論」を展開するつもりはありませんが、時に避けられないことがあると思います。それは芸術の鑑賞方法だったり、そもそも芸術とは、という、僕の視点をお話しなければ、困ったことに本題がうまく伝わらない場合もあるでしょう。その時はなるべく饒舌に過ぎず、短くコンパクトにまとめるように気をつけるつもりです。
 現代の音楽について僕の基本的な考えを短くまとめてしまえば、近年は音楽を楽しむ媒体として日常の中に録音された「何かしら」があって、生で聴くよりスピーカー(もないおうちも多いが)かヘッドホンか、最も多いのはイヤホンという人。それが一番身近な音楽との距離に関する圧倒的な一般例だと思います。
 消費者の求めているものに応えるため、または常に頭打ちの感覚を持っているからさらに変容を遂げるべく、商業音楽の中にもニッチな音だったAmbientやnoiseなどの装飾や手法が取り入れられるようになり、最近ではサウンドデザインや音響からの見地による創意工夫と進化が著しく、耳も楽しいです。
 音楽が芸術であるかどうかの前に、音が音楽になっているかどうか、そんな時代になりました。

 はじめに、のさいごに。
 指揮者が阿呆とは、どういうことか。阿呆な指揮者とはどんな人なのか。そんな人がいるのか。そもそも、阿保な人が指揮者になるんじゃないのか。だって音楽家なのに直接は音を出すことかできないわけだから。そもそも、指揮者が違うとどう違うの?
 このような質問に答えるために、僕たちは「ひと言」に要約された言葉を持つ必要があるでしょうか。今まではありませんでした。それを感じ、知ることが音楽体験であり、演奏者もお客さんも等しく現場でしか知り得ないことでした。しかしこの頃は違います。
 世の中の流れも、音楽の在り方も、テクノロジーも、法律も。全てが音楽家(ミュージシャン)にとって過酷な環境に追いやられていきますが、それでも淘汰されることはありません。煩雑なことは現状大問題ですが、レベルは決して低くはありません。くだらないジャンルの垣根を超えた、日本人の音楽の話をしています。
 もうひと声、さっきの「音楽との距離」についての話へ脱線します。
 現在の一般家庭にどのくらい音楽の試聴環境が整っている家庭があるのか。音を出力再生するのは、まさか、誰かによって強く均一化をはかられた純正イヤホンのみなんて味気ないことはないだろうか。移動のお供、掃除のお供もいいけれど、その他にも、ちゃんと向き合って音を聴く時間がどのくらいあるのだろう。

 その時間がないことに警鐘を鳴らしたいわけではありません。日頃の世の中の動きを見ていれば、忙し過ぎることは誰もが火を見るより明らかです。貧乏暇なしなどと言う言葉を今でも遺っているのは、ほんとうはちょっとおかしいことなのかもしれません。
 ただ、消費する時代には、やはり危機感を覚えています。商品も多くの物は「消費期限」が記載されています。この常識に含まれる感覚は「賞味期限が記載されているより具体的である」というよりも僕にとって退廃的に映り、行きつく先を想像すると息が詰まります。
 音楽はゆとりです。
 ゆとりを得るために苦しむのは一見おかしなようですが、大好きな音楽で自らのあらゆる問題点を見つめ直すことができれば、それは僕にとって一番ストレスの少ない方法なのではないかと思います。
 願わくば、この『演奏読本』が僕自身の背骨となって、オンライン上に深く深く根差してくれることを願いつつ…。

2022.6.20 チェリスト・塚本慈和



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