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巳年 脱皮に向けて

久々に観た紅白歌合戦

たまたま、ふっとつけたTVで流れてきた、藤井風。
グッと惹き寄せられた映像だった。

晴れてゆく空も
荒れてゆく空も
僕らは愛でてゆく
何もないけど全て差し出すよ
手を放す
軽くなる
満ちてゆく

作詞、作曲 藤井風「満ちてゆく」より

今年も、晴れる日も、荒れる日もあるだろう。
どちらも愛でることができるのだろうか・・・
なんてことが頭をよぎった。

https://www.youtube.com/watch?v=ptiK8U4WlSc

(紅白歌合戦の映像はもう公開され無くなってしまったのでこちらのリンクを貼りました)
放すことで満ちるって、
まさに「知足」の本質、仏教思想だなって。

仏典に出てくる「蛇」

数多い仏典の中でも最古の『スッタニパータ』は、蛇の章から始まる。

ここで蛇は脱皮を象徴的に表現、体現するものとして登場する。

走っても疾(早)過ぎることなく、
また遅れることもなく、
「世間における一切のものは虚妄である」
と知っている修行者は、この世とかの世を共に捨て去る。
ー 蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』P.12

自分のキャパや裁量を越えて無理しすぎることなく、
かといって怠慢になって、だれないように、
ちょうどいい塩梅を行きたい、生きたいものだ。

脱皮願望を超えて

さて、脱皮とは何だろう。

今ある、自分がダメで、いけてなくて、こんな自分は嫌だから、
外側にある理想に向かって、
もっと年収をアップして、
もっと海外に旅行に行って、
もっとスキルアップして、
もっとキラキラに、
もっとフォローワー数を増やして、
というのとは、だいぶ違う気がしている。

端的にいうのであれば、
自分がもっと自分になることだと捉えている。

蛇も脱皮して、蛇以外の何かになるわけではない。
蝉も、蝶も、幼虫から、蛹へ、そして成虫になる。

誰か違う別の存在になるのではなく、
その本来の姿、存在へと変貌(metamorphose)していく。

脱皮ではないもの

だから脱皮の本質は、
奇抜であったり、
特別であったり、
誰かと比べて、
秀でたり、目立ったりすることでは決してない。

比較して得られる何かとは、
まったく次元も質感も異にすることに注意が必要だ。
自分という存在はこの世にたった一人しかおらず、
そもそも、比べようが無い。

脱皮がもたらすこと

じゃ脱皮するとどうなるのだろう。
脱皮って、より自然な感じだ。
無理が無いといってもいい。
囚われがゆるまって、自由になっていく。

無理にブランド品を身につけて、
高級なバックや、貴金属が、服がなんか浮いちゃってるのの逆で、
その人っぽい、さりげなくて、馴染んでいる感じ。

脱皮したから、
願いが叶うわけではない、
夢が実現するわけではない。
もちろん、結果として起こることもあるだろうけど。
でも、それは、まったくといっていいほど本質ではない。

見える風景が変わるってこと。
仕事観
人間観
人生観が変わり、
例え、同じ状況だとしても、
その奥行きの深さと可能性に思いがいくということ。
今まで、聴こえることがなかった、
微かだけど、確かな響きを感じるということだ。

脱皮とは深化(=深く化ける)することだといえそうだ。
深化して、新生(=新しく生まれる)する営みだろう。
そしてそれは、新しく取り入れるというよりは、
とても懐かしいもののように感じるかもしれない。

民藝の創始者で仏教思想に深く通じた柳宗悦は、
「懐古は反復でない。新生への準備である」と喝破する。

藤井風と白隠禅師


開け放つ
胸の光
闇を照らし
道を示す
やがて生死を超えて繋がる
共に手を放す
軽くなる
満ちてゆく

作詞、作曲 藤井風「満ちてゆく」

開け放ってみたら、「胸の光」があった。
自分の中に既にある「内なる光」が、旅の道標として、
暗い道を照らしてくれる。

仏教では「内なる光」を「仏性」と呼ぶ。
そのことを、江戸時代後期の禅僧白隠は「衆生本来仏なり」といった。
私たち大衆は、既に内なる光を宿している存在だと。
だから、外側を探し求めて彷徨うよりも、
足元をもうひと掘りすることの方が大切なのだと。

私たちは、比べようが無い、固有な存在でありながら、
内なる光を宿しているという意味では、どこまでも等しい

だから、脱皮して、深化して、新生するほど、
他者に開かれ、繋がっていく。
そして、満ちていく。

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