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軽井沢禅的リトリート

リトリートとは

この頃リトリートという言葉を目にすることが増えた気がする。
リトリートとは、退却、後退、隠遁を意味する言葉だ。隠れ家やカトリックにおける黙想の意味でも使われる。

英語のreという接頭語は「後ろへ」、「離れて」を意味する。リトリートとは、前へ前へ、上に上にと急き立てられ、慌ただしく、忙しない喧騒から距離をとり、自分を取り戻す、本来の自分に立ち返る営みだと捉えている。

「禅的リトリート」のはじまり


2022年に『ZEN禅的マネジメント』(内外出版)という書籍を著した。

それを読んでくれた友人の宝槻圭美さん(たまちゃん)が、ここに書いてあるワークを実際にやって欲しいと連絡をくれて「軽井沢禅的リトリート」が始まった。

たまちゃんはユニセフなどの国際協力を経て、子どもたちにワクワクする教育を届ける探究学舎の経営の一翼を担い、NVC(共感的コミュニケーション)やコーチングを始めとして個人と関係性の癒しに深く関わっている。新しい会社も立ち上げている。https://houseofbloom.studio.site/

5人のお子様のお母さんでもあり、私からすると妖精のような存在だ。「禅的リトリート」の名付け親でもある。

たまちゃんが、同じ軽井沢在住で森のようちえんの理事やライターをしている長谷川絵里香さん(絵里香ちゃん)を誘って、3人で場を紡ぐことになった。絵里香ちゃんはどこまでも真摯で、純粋な感性が何とも可愛らしい、丁寧に繊細に文章を綴る人だ。

さらに初回の参加者でスイス在住「麹の使徒」論田裕子さん(ろんちゃん)の計らいで「スイス禅的リトリート」の展開も始まった。ユングやシュタイナー、深層心理探究の歴史を刻んできた土地での開催に深いご縁を感じている。

目的とも距離を置く


ここまで季節の移ろいのなかで回数を重ねてきた「軽井沢禅的リトリート」。一般的なリトリートとはだいぶ違っているようだ。参加いただいた方々にも声をいただくものの、曰く言い難い経験であり、言葉にするとすり抜けてしまう感覚がある。

「軽井沢禅的リトリート」はどのような場なのか、その質感を一応のところ、もう少し言葉として置いてみたい。

同じreという接頭語を持つが、「軽井沢禅的リトリート」で行っていることは、リラックスやリラクゼーションがメインではない。ましてや、ハイパフォーマーになるためのものではない。「目的を定めて努力して達成する」というもしかしたら当たり前になっているパラダイムから離れ、行為それ自体を味わうことを大切にしている。このことは、瞑想や睡眠、芸術鑑賞など、個人の内的なことまで踏み込んで、仕事のパフォーマンスを上げる「手段」として商業化され消費している現代の中でとても貴重なことだと思っている。

メインテーマは「いのち」


英語で書くとどちらもlifeだけど、「生活」と「人生」の意味を違うものとして捉えたいと思っている。「生活」はより経済活動と結びつき、生活に追われる、生活が楽になったなどと使われる。数値化できる量的なニュアンスが強い。一方で「人生」はもう少し長い時間軸で深みに入っていく、生きるという根本に関わる質的テーマだ。「禅的リトリート」は、生活よりも人生のこと、もっといえば一人ひとりの固有の「いのち」がメインテーマとなる。

会場の隣にある「妖精の森」

他と比較しない、外側ではなく内側


現在の世の中は、比較して、他者よりも優れよう、秀でようと努力して、もがいて、やがては疲弊し切ってしまう負のスパイラルにはまりこんでいるように見える。

そうではなくて、比較しようがない、固有の光を内包する「いのち」を見つめ直し、感じ直し、出会い直していく。相対的ではなく、比べようのない絶対の存在である自分だから、外側に理想像を追い求めることを手放して、本来の自己に深くつながっていくことが大切だと思う。仏教が説くところに従えば、「衆生本来仏なり」、もう既にわたしたちは、仏性(素晴らしい光)を宿しているのだから。

じっくりと「問い」に向き合う

もう既に、必要なものは備わっているという考え方をしたのは、仏教だけではない。古代ギリシャの哲学者ソクラテス、プラトンのイデア論は、目にみえる存在は目に見えない実存に支えられているという考え方であり、中核にあるのは「想起説」だ。それは、知るべきことは、既に備わっていて、すべて思い出すことであるというもの。

あるものを目覚めさせていく、十全に開花させていく、馴染ませていく、それは驚きでもあり、懐かしさでもあるだろう。

全体性の回復


これまで気づくこともなかった、心の暗部に向き合って、認識して、抱きしめたとき、自分という全体性が回復していく。health(健康)もhealing(癒し)も語源を辿るとwhole(全体性)であるように、本来の姿に戻っていく営みである。無意識に隠蔽し、嫌悪している内部に抱えていた暗部とも和解する。そして絶え間なく更新され続けている動的な自分という全体性が戻ってくる。禅の基本書「十牛図」を道標に、軽井沢の森のちから、場のちからに支えてもらい、集まった仲間とともに。

廓庵「十牛図」を小川ケンイチさんに描き直してもらった
https://www.syoumukou.com/

意図的に他者と仲良くなろうというよりも、自分とのつながりが確かになって、おのずから他者にひらかれていく感覚がある。それは、今まで自分でも気づいていなかった、想像すらしてなかった自分の可能性の広がりでもあり、深まりでもある。

自分が自分として自分を生きる以上に大切なことがあるだろうか。自由とは、自分に由ることであり、いのちがつながって、ひらいて、深まっていく旅だ。もう外側に理想像、あるべき姿を求める必要はないのだ。

そして、実はもう既に、いつも息づいていた「リトリート」が、目前に広がっていることを思い出すことである。それは、内に抱えていた「恐れ」が、大いなる自然への畏敬の念としての「畏れ」へと昇華していくことだ。特別なイベントではなく、当たり前と思える日々の日常に、精妙な輝きがあるという実感に包まれることでもある。そして旅は続く。

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