自灯明、法灯明。
だいぶ前ですが、4月8日は薬師如来のご縁日であり、
何よりも花まつりの日でした。
東アジア以外の仏教国では5月の満月が
お釈迦さまの生まれた日とされています。
今年は5月16日がその日にあたります。
去年もちょっと書きましたっけ。
そういえばここのところ、甘茶飲んでないなあ…。
花を見ながら紅茶にはちみつでも入れて飲みますか。
「自灯明、法灯明」は、
弟子たちがお釈迦さま亡き後は誰に従えばいいのか
とお聞きしたときにお釈迦さまが答えられた言葉。
「自らと仏法を拠り所とせよ」という意味。
これには続きがあって、阿難尊者が
「自らと仏法を拠り所にせよというのはどういうことですか」
とさらに突っ込んでお釈迦さまにお尋ねしているのですね。
ここでお釈迦さまがお答えになったことは
「身体と感覚と心とさまざまな事柄についてよく観察して
気をつけるということをして、この世の貪欲と憂いを除きなさい」
ということ。
すごく簡単にいうと、これまで一緒に修行してきた観法を
行い続けなさいということになります。
これは以前に書いたことがありますけども。
チベット密教僧の先生が端的に教えてくださったことでもあります。
初期仏教の経典には、かなりつぶさに
何についてどのように瞑想してどういう結果を得るか
というのを繰り返し繰り返し書いているものが多いです。
仏教においては観法がとても重要なのですが、
現代の日本では禅宗を除くとそこまで実修されていない
と言えるかもしれません。
留学生の僧侶の方たちが、日本のお寺に
瞑想する場所がない!って驚く話を時々聞きます。
諸外国の僧侶はそれくらい瞑想するのですね。
真言宗でももちろん観想は大切。
短い真言をお唱えする時にも行うのが基本。なのですけどね。
もともと高野山も修禅の道場として
お大師さまが嵯峨天皇から拝領していますし。
「修禅」とは「禅を修する=瞑想する」という意味です。
仏教以前のインドの宗教でも瞑想は重要な修行項目でした。
お釈迦さまがさとりの智慧を完成させて仏陀となられた後、
近くで修行していた五人の修行者や
そのほかの何人もの人にその智慧をシェアしたところ
たちまちその人たちもさとりの境地に達した
というエピソードが語られますが、
同じ方法論で修行してきた人がたくさんいて
ある程度の素地が共通していたために
そういうことができたのでしょう。
以前研究者の友人と学食で(笑)
「なんで仏陀在世当時のインド人あんなにさとれたのか問題」
について話し合った結果、こうじゃないかなーと
いうことになったわけですけどね。
独立して修行できる人4人が集まったらサンガが成立する、
ということを以前書きました。
この「独立して行う修行」というのも多くが瞑想法のこと。
この瞑想の段階が9つあるとされています。
修行によってその一つ一つの瞑想の境地に入れるよう
訓練することになります。
従って、「自灯明、法灯明」も
ただ心構えや意識の持ちようについて語っているのではなく
たゆまず実践することも要請する内容。
意外にさとりに向かうための方法論は明確に示されていて
それは仏法を知って実践することに尽きる、
といっていいのかもしれません。