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愛という名のもとに。

今日はバレンタインデー。
この日は「ちょっといいチョコを自分に買ってあげる日」
になっていて、あらかじめ手配しておいたちょっといいチョコが
続々(幾つ買ったの)手元に届いています。

美味しい紅茶やコーヒーと共にいただきます!

意外とほうじ茶も合います。

バレンタインといえば愛。
愛は仏教ではあんまりいい意味じゃないよ、
ということを以前書いたと思いますけども。

現代人が使っている「愛」という言葉は
かなりキリスト教的概念での「愛」の意味に近いです。
そもそも明治以降「Love」の訳語として愛という言葉が
使われるようになってますしね。

ですが、人間社会の中においてはやはり
非常に魅力的な言葉です。

愛は他の存在を思いやる心。
恋愛、親子愛、夫婦愛、家族愛、同朋愛、人類愛、愛国心。
ペットへの愛、郷土愛、環境への愛。仕事や趣味に対する愛も
ありますね。
どれも自分に近しいものとして親しみや繋がりを持つ気持ちを
表しています。

逆にいうと、自分に近しいもの、親しみや繋がりを感じないものに
対しては愛情を持つことは難しいということ。

だとしたら、普遍的な無償の愛とか慈悲といったものを
抱ける境界に行こうと思ったら、より広い範囲のものに
近しさや親しみや繋がりを感じることが必要です。

ですので、愛するということは
ただ感情や感覚だけのものではなく、
知性的な知識の蓄積やコミュニケーションを取る
といった行動を通して、いかに自分と他の存在との間に
共通点や繋がりを見つけ、そこに臨場感を持って
感情を添わせていくことができるかというところが
重要になってきます。

仏教的に慈悲と智慧の両方が必要、というのも
このへんの事情を指しています。

ごく自然な感覚や感情としての愛や慈悲を感じるのは
誰にとっても比較的簡単なこと。
しかし、その範囲が広くなっていくにつれて具体性が
薄くなってくるために、同じ程度に感じるのは難しく
なってきます。

それを超えて共通点を見出したり、なんとかして良い関係を
作ろうとしたり、感覚的な葛藤や利害の違いを超えて
結びつきを維持し続けようというのは
この地球という限りのある環境の中で人間が生きていくために
どうしても必要なことだから。

恋愛は確かに勘違いと投影とホルモンの働きから
きている部分もありますが、その強力な甘美さの経験の中から
より広い範囲の普遍的な愛、大いなる慈悲に繋がる視点を
体感を持って見つけていくことができるきっかけになります。

命短し、恋せよ乙女。

自分の中から広がっていく温かい気持ちを
近いものからそうでないものにまで広げていこうと
いう気持ち。

愛や慈悲というのは、ただ漠然と「良い」「ポジティブな」
ものであるのではなく、
そうであるという意志とお互いを理解しようとする
決意の中で生まれるものでもある、
ということを考えてみてもいいのかもしれません。

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