先祖供養がなんで大事なのか問題について。
どんなことでも、基本に返って考えるというのは
けっこう大事なことのような気がしています。
ものすごーくいろんな人がこれ強調されますけども。
大事なのはわかる。
でもなんで?っていうのを改めて考えてみたいと思います。
当たり前じゃん、と言ったらそこで話が終わっちゃいますのでね。
今日私たちが生きているのって、当たり前なんですけど
自分一人の手柄じゃないです。
少なくともご両親、祖父母、曾祖父母と、
直系の血を繋いでくれた人がいるからこそ
今日があるわけです。
そのうちの誰一人欠けても今日の自分はいません。
小さいときにこんなお父さんやお母さんじゃなくて
違う家に生まれてきたらよかったと思うこともあったかもしれませんが、
このお父さんとお母さんだから自分が生まれてこられたんです。
違う組み合わせだったら、違う人になってた。
大人ならもうそれはわかるはず。
子どもは愛されること、愛を受けとることが仕事です。
なので、子どものうちならこういうクレームも
つけてもまあお目こぼしです。
でも大人になってからは…。
命の流れは一方通行で、さかのぼったり逆流したりはできません。
だとしたら今日の自分にできることは、
自分が今あることに感謝すること。
それは必然的に自分に命の流れを繋いでくれた人たちに
対しての感謝にもなります。
しかし、その人たちが正しかったか、愛情深かったか、
自分にとって望ましかったかはまた別の話。
ここを一緒くたにすると、ことは複雑になってきます。
自分の考え方のなかで、自分にとってよいものでないと感謝できない、
というのがあるとしたら
それは自分が受け取った恩恵をものすごく限定する
とてももったいない考え方です。
自分もよくなければ感謝できない、ということで
感謝のハードルがめちゃめちゃ高くなります。
でも考えてみてください。
自分ってみっともなかったり情けなかったり
欠点があったり気に入らないことがあったり、
でもそんな自分だからこそ明日はもうちょっと
マシになりたいとがんばってきたのではないですか?
ご先祖さまたちも同じように
今日より明日を幸せなものマシなものにしたくて
頑張ってこられたのだと思うんです。
その流れのなかに自分の生命もありまず。
ご先祖に感謝するというのは、自分を大肯定すること。
大肯定というのは、存在自体にOKということです。
エクスキューズや条件をつけていたら、いつまでたっても
感謝できないままになってしまいます。
感謝の表現として何をするかなと考えたときに
先祖供養というスタイルがあります。
それは感謝の気持ちを分かりやすく表現するやり方のひとつ。
そして同じそのやり方をもうけっこう長い間続けてきた
先人がいるわけで、送る側も受けとる側も
これやるってことはそういう意味ね、
という共通了解がある分通じやすいやり方なんですね。
先祖代々の宗派を変えるのはよくない、といわれることがありますが
受けとる側にしたら親しみのある形でないものや
聞いたこともないお経を聞かされると違和感がある
ということかもしれません。
そういうことに詳しい方のお話によると、
50回忌まではその人が生前親しんでいた宗派のやり方に
従ってやる方が無難だろうということです。
50年くらいご供養すれば向こうでの修行も進んで
どのお経でも功徳はあるのね、というところが
納得できるようになるからということらしいです。
とはいえ命の流れをつないでくれた方が一番嬉しいのは
生きている人たちが幸せに生きていること。
形式にこだわりすぎてそこをはずすのは、
これまたちょっと違う。
同じやるのであれば、お互いにとって
無理なくわかりやすくやりやすい範囲で
行うのがいいです。
そしてそこに神仏が立ち会ってくださっていた方が
いろんな意味で安心できるんじゃないかな、と思うんです。