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改めてお地蔵さま。

地蔵会の施餓鬼供養の施主さまには
今日までのおつとめお疲れさまでした!

たくさんの餓鬼さんたちが餓鬼の境界を離れて
それぞれ行きたかった良いところに行ってるんだなあ
としみじみ思います。

祥鈴庵のセンターはお地蔵さま。
なんでお地蔵さまを選んだの?というのもよく聞かれるんですけど。

この仕事を始めるにあたって、どういう方針でやっていこうかねえ
と考えるわけですけど、その時にやはり一番中心に拝む方を
どなたになっていただくかというのが重要です。

しかしこれは、簡単にわかるものでもないのですね。
だいたい「うちのお寺はご本尊が◯◯だから」
という感じが最近は多いですし。
考えてみれば、どなたにしよう~😆と悩めるのも
贅沢な状態なのかもしれません。

神仏にはこちらからつながっていくものだというお話も
何度かしましたが。

自分でこの方と決めてしばらくおつとめさせていただくうちに
つながりが強まって来るもの。

しかし在家出身の修行者というのは、最初はえてして
験の鋭い天部の尊に惹かれる場合が多いような感じがします。

まだ娑婆っ気があるので、なんというか、
日本語が通じやすい気がするんですよ。

いろんな阿闍梨さま方が口を揃えておっしゃったのは
やはりまずは仏菩薩を拝みなさい
ということ。

これは、自らが心の頼みとしてつながる方は
深く広い境界の如来や大菩薩である方がいい
ということ。

その懐の中で広大な仏法の世界を学ばせていただく。
ある境地を教えることができるのは、
その境地をよく知っている方だけです。

初心の行者に対しても優しいという尊もいらして
お不動さまや蓮華部の尊などは比較的そうなのですが、
とはいえこちらの行が足りないと
「…」みたいな雰囲気だったりするのはよくあること。

やっていくうちに足りない自分に日々気づくことになります。

お地蔵さまは日本人にとってはとても身近な仏さま。
いろいろ考えてお地蔵さまにしようと決めたのも
そういう親しみも大きかったかもしれません。

ご供養も福徳も心の安らぎもお得意なイメージがありましたしね。

数年間縁あっていろいろとお世話になったお寺で
泊まりがけになったときに貸していただいていたお堂に
立派なお地蔵さまがいらっしゃったのです。

泊まるたびにせめてもとなにかお供えしたり
お経をあげさせていただいたり。
思えばそれは定期的にそこでお籠りさせていただいていたようなもの。

思わず知らず見ていてくださったお地蔵さま。

お地蔵さまだって、厳しいところがおありな大菩薩。
それでも修させていただくたびに暖かいのは
いつのまにか積み重なっていたものがあったからかも知れません。

その時は何の気なしに行っていたことの報いが、こんなふうに
現れてくることもあるということを教えてくださいました。

まだまだよちよち歩きのおぼつかなさもありますが
一歩一歩ついていきたいと思います。

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