「日本人」として消える日まで②
テラ(地球)の誕生
宇宙はエネルギーで満たされてるでしょ・・・・・・ それに意識(思考)の刺激を与えることによって、どんな形にもなることができるの。ものすごく大きな物質にも、ものすごく小さなものにも、石にもなるし、生物にもなるし、見えないものにもなる・・・・・・ 宇宙に存在する波全てに意識(思考)があるってさっき説明したでしょ。テラには、テラの意識(思考)があるの・・・・・・ そして、テラは惑星になろうと思った。一人で惑星をしていてもつまらないから、他の惑星になりたい波の意識(思考)と相談して、太陽系を創ろうと思ったの。こうして、あなたたちの知ってる(肉眼で見える)宇宙の惑星たちが誕生していったのよ。
少し長い引用ですみません。これが、筆者のいうテラ(地球)の誕生です。地球には意識(思考)があり、地球自身が望んで惑星になったといいます。また、筆者はこうも言っています。
テラはね、アクアリウムを創りたかったんですって。 (中略)たくさんの生き物たちがテラの上で生き生きとしている、そんな外から見て楽しくなるような星にしたかったって言ってたわ。
そしてテラは、生きるのに必要なものがずっと循環していられる完璧なシステムを作り上げ、表面で生物が豊かに暮らせるようにしたのだといいます。
これを見ると、地球は「生きている」のだということに改めて気づかされます。私たちは循環による、地球からの、まさに恩恵を受けているのだと。
加えて、地球はやはり、生き物たちが幸せに暮らせる惑星、楽しいエネルギーで満たされた惑星を創りたかったのだとわかります。
このことが本当だとするならば、今を生きる人間たちはいったい何をやっているんだと思います。現実に対して悲しく、寂しく、情けなくなります。しかし、これは人間だけの問題ではないのかもしれません。いまの世界は、もっと大きな力によってコントロールされているのかもしれないからです。
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ムーとアトランティス文明
住みやすい魅力的なテラ(地球)に最初にやってきたのは、レプティリアンという爬虫類人だったと作者は言います。彼らは金(ゴールド)、コントロール、支配から生まれる暗い重いエネルギーを好み、それを得るためであれば争いや死をも厭わないという考え方をもっています。
そんな彼らが築いたのが、かの有名なアトランティス文明。レプティリアンは労働力を確保するための奴隷として、手先の器用なサルと自分たちの遺伝子を融合させ、人間をつくったといいます。彼らの創り出した支配・コントロールから利益を搾取するピラミッド型の社会システムはその後シュメール文明、エジプト文明、黄河文明、、、へと勢力を拡げていきました。
一方、それに耐えきれず逃げ出した人々がムーであり、彼らが築き上げたのがレムリア文明です。ムーはレプティリアンとは対称的に、明るく軽いエネルギーを好みます。そして最も大きな違いは、所有の概念の有無でしょう。ムーの種族には所有の概念がありません。ですからこの世のものはすべてみんなのもの。人間同士の間は勿論、自分たちはテラの循環システムの中で恩恵を受けながら、自身もまたシステムの一部であることを理解して生きていたといいます。
ムーの人々は、みんな超感覚を持っていましたから、テラなどほかの次元の存在の声を聴くことができたのでしょう。マヤ文明のマヤ人もそのうちの一つです。しかし人間は、レプティリアンによって超感覚の神経を切られて生み出されたため、次元を超越することはできない存在なのだそうです。
これだけをきくと、レプティリアンはなんと残忍な存在なのかと思われるかもしれませんが、これはあくまでも考え方の違いなのです。何に価値を置くかによって、正義のかたちは変わるものなのです。重いエネルギーを好むレプティリアンと、軽いエネルギーを好むムー、どちらが良い悪いという問題ではないのです。
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「日本人」としての私
ムーの人々がレプティリアンから隠れるために行き着いた先が、現在の日本の場所だったということは、日本人の私にとって重要なことでした。私がこれまで生きてきた中で感じていたモヤモヤを解く糸口が、そこにあるように感じたからです。
私はこれまで、中でも最近は特に、自分という人間の中の二面性を感じていました。周りにいる人々(男女かかわらず全ての人間)のことを心から好きだと思う感情がある一方で、自分以外の誰とも関わらず一人で部屋にこもっていたいと感じることもある。人にはみんなそれぞれの良さがある、みんなが自由に楽しく生きられればいいじゃないかと思う半面、人よりも良く思われたい・評価されたい、自分のことだけを見てほしい、自分の考えに合わないものはダメだ、という衝動に駆られることもある。なんでこうも相反する感情が、一人の人間から生まれてくるのか、ずっと疑問に思っていました。
ここで、ムーとレプティリアンのことを引き出してみると、これらの二面性は、軽いエネルギーを好むムー的な思想と、重いエネルギーを好むレプティリアン的な思想の対立ととれるのではないかと考えました。縄文から弥生になるにつれ、日本に大陸からナーガ(レプティリアンの下級種族)が入って来て、彼らの交配が無数に繰り返された末に生まれたのが私たちなのだとすれば、ある意味この二面性は必然的なものなのかもしれません。
さらに、もう少し思考を進めると、私はムーの遺伝子が少し強い存在なのかもしれないと考えるようになりました。はっきり言って、私は現代社会における少数派だと思います。「みんな」とは嗜好するものや考え方というのが少しズレているのだと、これまでの人生の中で何度も感じてきました。
大学生になり特に感じたのが、所有に対する感覚の違いです。私は周囲から見ると、お金や持ち物など、所有物に対して、ルーズなのだと思います。他人(あくまでも友人ですが)からお金を平気で借りて、返すのを忘れることもある。他人の机にあるお菓子を何の悪気もなく勝手に食べてしまう。ちょっとヤバいやつなのかもしれません。しかし、相手には申し訳ないけれど、案の定、私はその事実に対して、大した悪気は感じていないのです。なぜなら私は、私が他人にお金を貸すことも、勝手にお菓子を食べられることも、大したことだとは思っていないからです。本や道具にしても、譲渡はしないけれど、勝手に持ち出されていたところで、その相手には何の怒りの感情も抱かないのです。「何でもお好きにどうぞ」の感覚なのです。
わたしは、この感情の深層心理には、ムーの血、いや波動が流れているのではないかと考えました。すべてはみんなのものだという感覚が、遺伝子の中に実は存在しているのかもしれません。レプティリアンによって半ば支配されかかっている現代社会において、私が自身をマイノリティだと感じ、日々社会と葛藤しながら生きている姿は、どこか自然と、ムーの人々がレプティリアンから逃げていった心情に重なる気がするのです。
こんなことを思えるのはもしかすると、私が金銭的に特別不自由のない家に生まれ、特に大きな問題もなく大学院まで行かせてもらえるような環境で過ごしてきたからなのかもしれません。今日明日を生きることで精いっぱいな状況であれば、こんなことは思わないのかもしれない。ある意味平和ボケした考えなのかもしれません。
しかし、もしこのムーとレプティリアンの話が本当だとするならば、金(ゴールド)や労働、ピラミッド型社会のシステムを創り出したのはレプティリアンたちですから、お金があること、地位のあることが豊かだという考えそのものが、彼らが我々人間に刷り込んだつくりものの正義(レプティリアンの中での正義)だといえます。
今の世の中を見ると、お上が右だと言ったら皆が右を向き、向かないものは排除されるピラミッド型社会における絶対的ルールが、ニューノーマルだといわれれば皆が飛びつき、流行に乗れないものはおいて行かれる現代社会の”ウラ”ルールと大きなつながりを持っていることを隠しきれていません。
きれいごとに聞こえるかもしれませんが、本当に「豊かな」世界を目指すならば、今ある常識を変えなければならないと、私は本気で思っています。少なくとも私は、石油を大量に燃やして作ったエコバッグや、表向き差別反対を掲げて人々の感動を誘い人の障害や命を金儲けの道具に使うテレビ番組を見ても、世界が少しずつ「豊か」になってきているなどとは微塵も感じられないのです。
私は、かすかにもムーの血を受け継いでいる「日本人」として、今までもそうであったように、これからの人生においてもずっと「一般社会」と向き合い続けなければならないのだと感じます。そしてそれは、日本という国が、世界の中でも有数の技術や力を持っているのにも関わらず、どこかのステージで一周遅れになっているのではと感じられる現状に似ています。最近では「日本人らしさ」が、「世界」で活躍するためにはハンディキャップとなるかのように言われています。日本もある種、「世界」とは少しズレているのかもしれません。しかし私はこのズレが、今後の社会の常識を変える上での大きなポイントになるのではないかと考えます。そしてそのズレの根幹にある「日本人らしさ」こそが、私、もしくは私たち「日本人」に残された、生き残りのための最後の望みなのではないかと思われるのです。
③へつづく