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「日本人」として消える日まで①

プロローグ ー「グローバル化」

「ここは一体どこなんだよ・・・・・・」

筆者の一人である破・常識 あつし氏は作品冒頭、街が外国人であふれかえっている状態を見てつぶやきます。突如始まる彼の独白は、少し主張が偏っているように感じられる半面、現代の日本人なら誰もが共感できるのではないでしょうか。私もその一人でした。「国際交流は大事でよいことだ」という一般論がある半面、いざ周りが外国人だらけになってみると、どうも心がもやもやしてしまうものです。

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グローバル化なんてことが言われて久しいですが、私は以前からずっと納得がいっていませんでした。「世界中の人たちが一つになって、世の中をよりよくしていこう」というのが本来の目的であるはずなのに、なぜその中で消えゆく文化があるのか。それらはつまり淘汰されるものということです。言い換えるならばそこに優劣が生まれているということです。なぜ文化に優劣がつけられなければならないのか、私はずっとわかりませんでした。

しかし少し思考を進めていくと、この「一つに」というイメージに問題があると感じました。ここでいう「一つに」とは、「つながる・団結する」ということと、「統一」という二つの概念が含まれているのではないかと考えました。そして現実世界では、実は世界の「統一」のみが目指されているのではないか、世界の国同士が心を通わせて「つながる・団結する」ことの如何など、どうでもよいことなのではないかと思ったのです。

そこで改めて、「グローバル」という言葉の意味を調べてみました。

グローバル【global】
[形動]世界的な規模であるさま。また、全体を覆うさま包括的

これで私は納得がいきました。そもそもグローバル化の本来の目的とは、全体を包括すること。少し過激な言い方をすると、世界全体を統一/支配して一つのクニを作ろうとすることだったのだということに気づいたのです。だから私の思っていた、国を超えて人々が「つながる・団結する」ことなど、端から求められていなかったのです。

こうなってくると、いよいよこの世界の行き先が不安になります。この先私は、日本は、世界はどうなるのか。そもそも誰が世界統一なんてことを目指しているのか。本書を読むと、この疑問に対する答えの一つが見えたように思います。

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刷り込まれた「歴史」

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筆者の一人であるさくや氏は、これまで私たちが学校で習ってきた歴史というのは、勝者目線で見た話であって、事実とは異なる部分が多い。と主張します。アメリカインディアンはもともと住んでいた土地を、突然来た「勇敢な開拓者」たちに追い出されたにもかかわらず、人々を襲う野蛮な民族としてイメージに刷り込まれている。260年間戦争など一度もなかった江戸時代よりも、たくさんの血が流れていった近代の方がなぜ「豊か」といえるのか、と。

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この主張については私も強く共感しました。というよりも以前からずっと、同じようなことを考えていたという方が正しいかもしれません。わたしはそもそも、歴史を語るうえで感情論が介入していること自体が問題だと考えます。歴史の専門家やそれを教える人々は、歴史の面白さを知ってほしいがためか、はたまた自己の見解を主張したいがためか、やたら史実をドラマチックなストーリーとして伝えてくれます。もちろん、そのおかげで歴史好きな人は増えたかもしれません。私も、先生の話す歴史の裏話が好きで、ノートの隅によくメモしていました。それ自体を否定するつもりはありませんが、そこには大きな落とし穴がある可能性を忘れてはいけません。そこには感情論が少なからず介入しているからです。「インディアンは野蛮であった」「文明開化で国が豊かになった」というのは、史実を知った「だれか」からみた感情にすぎません。史実は「西洋人がアメリカへ入っていった」「明治時代以降、産業の機械化・効率化が進んだ」これだけです。何が素晴らしい、誰がかわいそうというのは、史実を聞いた一人ひとりが考えるべきことで、その解釈に答えなどないのではないでしょうか。

つまり、本来歴史を伝えるということは、史実のみを語り継ぐことであり、そこにはいかなる感情論も介入すべきではないと私は考えます。長年日本が韓国や中国、ロシアなどともめている民族、人権、領土をめぐる問題も、事実以外の感情論の介入によって、事が複雑化しているようにも見受けられます。これからの時代においては、史実のみを正しく伝え、それに対し一人ひとりが何を感じ、今後にどう生かすべきかを考える、という過程が、「歴史を学ぶ」ということの根幹であるべきであり、そうでなければならないと考えます。

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エネルギーと波動領域(次元)

何もない無の中に、突然パッと意識が生まれ、そのエネルギーが波動として広がって宇宙ができた。(要約)

これが筆者のいう「宇宙のはじまり」です。私ははっきり言って意味が分かりませんでした。急に波動エネルギーなんて言われてもついていけません。そのまま読み進めていくと、この世にあるもの全て、音も光も水も、そして私自身も、みんないろんな波動エネルギーのうちの一つだと知らされます。そしてそれらは皆、宇宙の始まりである絶対無限の存在(最初に無の中に意識を生んだもの)から分かれ、変化し、それぞれが望む表現をする中で生まれてきたものなのだというのです。

いきなりスピリチュアルまがいの話になって、びっくりですよね笑。ここまでは、まだ私には理解できていないというか、理解できなくてもいいかな~なんて思っています。しかしこの次に展開される「次元」の話には共感できた気もします。

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この世界には異なる波動領域(次元)がいくつもあり、人間はその中の一つに存在していて、他の次元にはまた違う存在がいる。中には次元を行き来することのできる者もいる。ということでした。私は、神や仏はまだしも、幽霊や宇宙人については、見えていないだけで確かに存在するだろうと考えます。見たことはありません。何ばかげたことをと思われるかもしれません。でも、この広い宇宙に、人間が知らない生命体が存在しない、この世は人間が知り尽くしているなんて考えの方が、むしろ傲慢ではないでしょうか。

つまり、幽霊や宇宙人は、私たちと違う次元に確かに存在するというのが、筆者の主張です。そして、今は見えないけれども、昔の人々には確かに感じられていた。そうでないと、なぜ昔から人々は寺や神社にお参りをして、お祓いをするのか。科学的に存在しないと証明されているのに、なぜ今もその文化が残ってるのか、説明がつかない、といいます。

まとめると、この世には様々な波動領域(次元)があり、全てのものはこの波動エネルギーによって存在しているというのが、本節の論旨です。そして、このエネルギーによって生まれたものの一つが、我々の住むテラ(地球)ということなのだそうですが、この話についてはまた次回に改めたいと思います。

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我思うゆえに我あり ー ワンネスの思考法

本書の内容が正しいとするならば、宇宙に存在するものは、最初は全て絶対無限の存在から生まれてきたということになります。その証拠に、少なくとも私たち人間は、人生の中で一度は、「自分はどういう存在なのか」「なぜこの世に生まれてきたのか」と考えるでしょう。これは絶対無限の存在の起源に他なりません。

だとすると、宇宙に存在するものは全て、最初はひとつのものだったということになります。これがワンネスというものだそうです。

このことを知った時、私はふと心が穏やかになった気がしました。私の周りにいる人たちも、海の向こうの国の大統領も、はたまた地球も、宇宙も、もともとはひとつだったなんて、平和な話じゃないですか。世界中で同じ人間同士がいがみ合っているなんて、本当に馬鹿らしく思えてきます。本当のことなのかどうかは置いといたとしても、この話を世界中で共有して、皆が共感できれば、たちまちこの世は(少なくとも人間のいる世は)、平和なユートピアになるんじゃないかと思うのです。

しかし、そんな簡単に事はうまくはいきません。そう思うのは、私が批判の声を恐れているからではなく、現在のテラ(地球)が、平和でない世界になるようにコントロールされているからです。そして、日本がどうも世界の流れになじめないのも、人々が流行り廃りに簡単に流されてしまうのも、すべてこのコントロールによるものだったのです。


②へつづく

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