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「日本人」として消える日まで③

神という存在

とは、人間を支配するためにレプティリアンやナーガ(レプティリアンの下級種族)が作り上げた存在だと作者は語っています。邪馬台国を作り上げた卑弥呼はナーガのなりすまし。そしてチャネラー(神、宇宙人の声が聞こえる者)であったキリストが本当に人々に伝えていたのは、聖書に書いてある内容とは全く異なること、だったそうです。テラ(地球)でピラミッド型社会を築きたいレプリティアン達は、神の声を聴くことができる存在を演じ、自分たちの策略を「神の言葉」として人間たちに伝えることで、人間を自分たちの都合のいいように洗脳していったというのです。

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また神社は、ナーガたちにとって都合の悪い、宇宙人とのやり取りが可能であった人物の波動が閉じ込められた、自由にエネルギーが動くことのできない、空気の重い場所。仏教は、宇宙との交信をしていたブッダの素振りだけを真似した他の者たちの行動が修行といわれるようになり、ただただ苦しいことに耐えれば仏に助けてもらえると思い込むようになった人々によってつくられたものなのだそうです。

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これが本当だとするならば、私たち人間にとって大きな影響力を持っている宗教というものは、なんと空虚なものなのかと思われます。ある時は人々をつなぎとめるものであり、またある時は殺し合いの原因にもなる宗教が、人間の社会を支配するための宇宙人による策略だったなんて。

私たち日本人は、毎年神社へ初詣に行き、お寺があったら拝みに行き、冬はクリスマスで大騒ぎします。宗教への関心が薄いからこそできることですが、実際私たちのしていることはもしかすると、閉じ込められた生霊(波動)やただ置いてあるだけの仏像に必死に念じ、偽の神の誕生日を皆で祝福していることに他ならないのかもしれません。

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キリスト教と「日本人」

日本に初めてキリスト教が入ってきたのは16世紀半ば。これもレプリティアンたちによる日本侵略作戦だったといいます。戦国時代から江戸時代にかけては、外交や鎖国を通して、その侵略を何とか防いできましたが、明治維新以降日本は、完全にキリスト教の沼、すなわちレプリティアンやナーガの思想に浸かってしまったといえるでしょう。

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私たちは学校で、鎖国はよくないこと、明治維新までの日本は遅れていたと習います。しかし本当にそうでしょうか。私は以前から、自分は江戸時代に生まれたかったなと思っていました。物質的な豊かさはなかったかもしれない、西欧諸国のような機械技術はなかったかもしれない。けれどもそこには、身の回りにあるものを最大限に生かして、必要最小限なものだけを創り出し、その中で幸せに暮らすという、確かな豊かさがあったと感じます。

さらに言うならば、当時の日本の人々は、西欧諸国にあったような機械を、造ることができなかったのではなく、造らなかったのだと思います。なぜなら、自分たちの暮らしにそれが必要だと考えていなかったから。必要最低限のものがそろっていて、毎日食べていければ、それ以上のものは望んでいなかったのではないかと考えます。

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そうでなければ、釘を一本も使わず立派な木橋を架け、世界に先駆けて水洗や汲み取り式の便所が生まれていた国において、西欧のような機械や技術がなかったことへの理由は説明できないのではないでしょうか。

蒸気機関は確かに人間の生活を便利にしました。通信技術は私たちの暮らしを変えました。海外のおいしい料理も食べられるようになった。それと引き換えに私たちは、生活習慣病を恐れて必死にジムへ通う「かっこいい」生き方を手に入れたのです。

本当の豊かさとは、何なのでしょうか。

最近SDGsなんて言葉が流行っていますが、本当にあれを実現しようと思うなら、やることはもう決まっています。みんな日本の江戸時代のような生活をすることです。

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貧困をなくそう

質の高い教育をみんなに

ジェンダー平等を実現させよう

住み続けられる街づくりを。。。

身分制度によって土地と食料の管理が国全域で完璧になされ、地域みんなの拠り所である寺子屋ができ、男色文化も花開いていた、超循環型社会。まさに「持続開発可能な」社会ではありませんか?

この社会システムが日本からなくなったのは、言わずもがな明治維新、つまりキリスト教の流入がきっかけです。そしてそのキリスト教を作ったのは、ピラミッド型社会をめざすレプリティアン達です。

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現在の私たちの生活は、ほとんどがこのキリスト教、つまりレプリティアンやナーガの影響を受けています。つまりそれは、支配的・統制的な生活ということです。何のことか、もう当たり前すぎてわからないかもしれません。それが彼らの狙いです。何百年、何千年かけて、じっくりじっくり侵略するのが彼らの戦法なのです。キリスト教と日本はそういう関係にあるのです。

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これからの時代における宗教とは

神などいない仏などいない。とするならば、私たちはこれから先、何を信じればよいのでしょうか。

結論から言うと私は、何も信じなくていいと考えます。そもそも、ただ祈って、願って、幸せになろうなんていう考えが甘いのです。何かかなえたいことがあるならば、自己の身を削って、自分の力で実現すべきではないでしょうか。神なんて、仏なんて、結局は同じ人間によって(正しくはレプリティアンたちによって操られた人間によって)創り出されたものなのです。金も同様です。通貨の概念も、レプリティアンたちが生み出したのですから。

じゃあどうすればよいのか。どうもしなければいい、と言いたいところですが、強いていうなれば、自分自身を信じることではないでしょうか。人生、いつ何が起こるかわかりません。仕事がなくなるかもしれない、愛する人を失うかもしれない、社会から見放されるかもしれない。しかし生きている限り、自分という存在は確かに自分の中に存在しています。人間、最後に残るのは自分自身なのです。ですから、もし何かこれからできることがあるとするならば、それは自分を信じる力をつけることだと考えます。「自信」をもって生きるための力を培うことだと思います。

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そのためには、学ぶことです。テレビで報道されていること、SNSに流れていること、周りの人がやっていることをそのまま鵜呑みにするのではなく、自分の体で見て、聞いて、触れて、学び経験することです。それが全てです。自分の中には、自分で手に入れたものしか残りません。そして自分を信じるためには、信じる力の源が必要です。それは、自分自身で獲得するしかないのです。

これを「自信教」とでも呼びましょうか笑。これからの時代を生きる上で必要なのは、神でも仏でもなく、自分で自分を信じられる心なのではないかと、私は考えます。


④へつづく

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