ミニマリストにはなれない
引越しの準備のため、自部屋にあるたくさんの本を段ボールに詰める日々。本、意外と繊細で梱包に本当に困る。万が一の為に色移りの恐れのある新聞紙は緩衝材には使えないし、本の向きも気にして入れないと角が潰れてたり紙が折れたりするらしいので気が抜けない。詰めすぎると引越し業者の方の肩や腰に被害を与えてしまうので、なるべく軽くを意識して詰めていく。金輪際大掛かりな引越しはしたくないと強く思う。
そんな段ボールと本に囲まれた日々を過ごしていると、ある不安が芽生えてくる。「この本を段ボールに入れてしまうと引越し後まで読むことができない」という不安。私が1ヶ月に読む本は大体2〜3冊だが、「これだけ読む!」と冊数を決めているわけではなく、私は複数の本を並行して読むことに幸せを覚える。ベッド周りには読みかけの本が山ほど積んである。繰り返し読みたい歌集や、漫画も点在している。
私は選べるということに幸せを覚える。私が手に取る本は、その時の私を表す感情や思考に近い。「今、こんな気持ちだからこれを読みたい。」という欲求に従って本に手を伸ばす。私の感情や思考は目まぐるしく変わる。日々の行動や出来事によって様々な心のトリガーが引かれ、ふわふわ浮いていた風船が割れるかのように。私の心の中は様々な割れた風船の中身の空気で混じり合う。命について、愛について、仕事について、出会いについて、写真について、文化について、などなど多種多様である。(さらに私には興味のあるトピックが多い。人はそれをにわかと呼ぶ。)それぞれふんわりと考えていた思考の風船が割れ、その中の空気が混じり合う。混ざり合った先にある思考はどんな色をしているのかは私にですら分からない。だから、どんな本を読みたくなるのかはもちろん私にも分からない。
自分に必要なものを品定めして、不要なものを手放すことの出来る人をミニマリストと呼ぶらしいが、私には自分に必要なものが何であるのかが分からない。様々な予防線を張って本を買う。「いつかこんな気持ちになるのでは」という予防線。本に惹かれて購入する要因を因数分解するとこの予防線に到達するのではないかと思う。本棚が今の自分を表すといわれる理由もこれに要因するのかな。
人は日々不安や疑問など様々な不明点を含めた思考の中で彷徨っている。人生は思考に埋め尽くされている。その思考は興味から来るのか、悲しみからくるのか、喜びから来るのかはさておき。私はその思考の解を専ら本に求めている。小説の主人公からその解を見出すこともあれば、誰かのエッセイから、詩や歌から、漫画からも見出す。
思考を続けるためには本が必要なのだ。だから私はミニマリストにはなれない。そして引越し準備は終わらない。