妬み嫉妬は、神が抑えることが可能?古代ギリシャ人の謙虚さとは

今回はイタリアの哲学者ウンベルト・ガリンベルディ先生の『七つの大罪と新しい悪徳』に出てきた「羨望」について書いていこうと思います。
全然メジャーではない先生ですが、非常に読みやすく、オススメです。


1・書籍の概要

先ずはこの本についての解説から。
この本はキリスト教のベースの1つでもある「七つの大罪」を、現在に置き換えたら何に該当するのか、という試験的な試みをしております。

※七つの大罪:人間を堕落させる7要素のこと。主にカトリックでよく使われる概念。

2・羨望とは

まず、羨望とは何でしょうか。本書では2つの説明を用いています。
※最初の引用は、孫引きになります。

羨望とは他人の不幸を喜び、
反対に他人の幸福を見ると悲しむあの気分のことである。

スピノザ『エチカ』第三部 p24

羨望とは、悪徳と言うよりは自分のアイデンティティが他の人たちと比較されることを脅威に感じる時の自己衛のメカニズム、自らを守ろうとする必死な企図なのである。

『七つの大罪と新しい悪徳』p46~47

つまりは、自分と他人を比較して、自分が持っていない要素を相手が持つ、という情報に嫉妬したり羨ましがったりすることでしょう。
因みに、ガリンベルディ先生曰く、社会構造それ自体が人間同士を比較させる機能を有しているため、避けられない運命にあると主張しています。

3・宗教による羨望への対処法

では、過去の人々は、これにどう対処したのでしょうか。
※太黒字は筆者の追加

この点に関して古代ギリシア人(そしておしなべて古代人一般も)は、我々よりもずっと賢明であった。彼らは美徳や成功を神からの授かり物と考えていたからそれを個人の功績としては認めないようにしていた。また神からの恩恵を授かった者を妬むというのはそれこそ神を冒するも同然な背徳行為とされていたのである。従って偉大なものは崇拝され、ニーチェが指摘しているように、「何かを崇拝する能力とは、決して受動的な行為でも屈従的なものでもなく、偉大なるものをそうと認める認識に基づいているのである」。
この認識は一方で発展するものに対して制限や障害にならないようにすると同時に、他方でこうした認識を持つことが出来る者に偉大さを模範とするように奨励するものである。それえゆえギリシア・ローマの歴史が教えるように、古代世界では「敵は闘いの相手となるとともに尊敬され、殺してもよかったが」、同時にその人徳は賞賛されたのである。こうすると「社会内での人間関係は強度の敵対関係に特徴づけられることになるが、同時に羨望からは解放されていたのである」。

『七つの大罪と新しい悪徳』p48

ガリンベルディ先生が指摘しているところでは、羨望という考え方や行動それ自体を、宗教によって無くしたようです。その結果、血が流れる代わりに、社会構造から羨望がなかったそうです。

4・感想

個人的には「羨望」が存在しない社会、というのは非常にイメージし辛いです。特にSNSの発達で自分になくて、相手にあるもの、というのがより可視化されているように感じます。
因みに、先生の社会構造が羨望を生み出す、の論拠として社会学者のヘルムート・シェック先生の嫉妬論を参照しております。曰く、資本主義社会の発展に不可欠である、資本家の競争心や市場の発展と、羨望には親和性があるとのことです。
次の記事では、何故羨望が誕生してしまったのかについて投稿しようと思います。

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