妬み嫉妬は、神が抑えることが可能?古代ギリシャ人の謙虚さとは
今回はイタリアの哲学者ウンベルト・ガリンベルディ先生の『七つの大罪と新しい悪徳』に出てきた「羨望」について書いていこうと思います。
全然メジャーではない先生ですが、非常に読みやすく、オススメです。
1・書籍の概要
先ずはこの本についての解説から。
この本はキリスト教のベースの1つでもある「七つの大罪」を、現在に置き換えたら何に該当するのか、という試験的な試みをしております。
※七つの大罪:人間を堕落させる7要素のこと。主にカトリックでよく使われる概念。
2・羨望とは
まず、羨望とは何でしょうか。本書では2つの説明を用いています。
※最初の引用は、孫引きになります。
つまりは、自分と他人を比較して、自分が持っていない要素を相手が持つ、という情報に嫉妬したり羨ましがったりすることでしょう。
因みに、ガリンベルディ先生曰く、社会構造それ自体が人間同士を比較させる機能を有しているため、避けられない運命にあると主張しています。
3・宗教による羨望への対処法
では、過去の人々は、これにどう対処したのでしょうか。
※太黒字は筆者の追加
ガリンベルディ先生が指摘しているところでは、羨望という考え方や行動それ自体を、宗教によって無くしたようです。その結果、血が流れる代わりに、社会構造から羨望がなかったそうです。
4・感想
個人的には「羨望」が存在しない社会、というのは非常にイメージし辛いです。特にSNSの発達で自分になくて、相手にあるもの、というのがより可視化されているように感じます。
因みに、先生の社会構造が羨望を生み出す、の論拠として社会学者のヘルムート・シェック先生の嫉妬論を参照しております。曰く、資本主義社会の発展に不可欠である、資本家の競争心や市場の発展と、羨望には親和性があるとのことです。
次の記事では、何故羨望が誕生してしまったのかについて投稿しようと思います。
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