
「理論シリーズ」はじめます。〜諸宗教•科学の統合的視座を提示する〜
これは「理論」について記すシリーズ。
いよいよ本題です。
理論とは
よく登場する「理論」とは何か。
(詳しくは「わたしは二人いる」の記事をご覧いただきたい)

「諸宗教・科学について統合できる視座があるのではないか」という追求の果てに、至った”現時点での凡その理論”である。つまり「“諸宗教・科学の統合的視座”に関する理論」といったようなものである。
「“諸宗教・科学の統合的視座”に関する理論」の動機
そもそも、これを探求した動機に二つある。
(1)動機1:全てが真実=重要である可能性
一つは、
・”諸宗教”および”科学”が「全て正しい可能性」があるのではないか。
・「もしそうであるならば“統合的視座”が存在することになる」ということである。
そこで、そこに興味関心を持って、探求してきたものである。
(こう言えば、自分の興味関心からしてきたように聞こえるが実際には少し事情が異なる。これは動機2にて)
そもそも、諸宗教というものが世界にある。
「宗教」なるものは人類に太古からあるものであるが、現代これが忌避されがちな状況になっている。
「宗教」なるものをどう見るかは人それぞれの見解があるものと思うが、
・少なくともこれまでの人類において「その精神的“軸”」として、それはつまり「情緒や道徳などにおいてもその軸として機能してきた」ものであり、重要であるかもしれない。
・或いは、宗教は実は迷信のようなもので「最悪の発明」という見解を示す人もある。
(そのどちらの方面が事実であるかを知るためには、宗教というものを探求する必要があるとも言えよう。後者のような立場に立つとしても、もし宗教が事実としてあるもので、重要なものであるとすれば、後者の立場は誤っていることになるし、それほど簡単に切り捨てることこそ、皮肉にも厳密な議論が出来ていないものと思う。
そこで、このどちらの方面が事実であるかということも、簡単に言えるものではないということはここで断っておきたい。)
宗教が現代に忌避されがちな最大の理由=矛盾感
ではそんな重要かもしれない、
「宗教が、現代なぜ忌避されがちになっているか」。
ここには実に色んな理由があるものと思われ、わたしも色々と思案してきたものである。
色々と大きい理由はあるのであるが、その中でもこの理由が最大の一つになっていると確信する。

それは「宗教について、矛盾を感じることが多くなった」ということ、「宗教の矛盾感」だと思うのである。
もしそこに「矛盾感がなく事実であると感じられるもの」であれば、他にいかなる理由があろうとも、”ここまでの忌避状況”は招いていないと思うのである。反対に、「矛盾感があることが、この忌避感をはっきりともたらしている」と確信するのである。
科学という人智との矛盾感
これはしかも主に、
「科学という人智」が進歩発達したことによる。

宗教というものは多くの場合、「目に見えない何かから、色んな事実(世界や人間などに関する情報)を教えられる」といった型式のものであり、人類にとって「世界のことを理解する内容」としても在ってきたものである。
一方で人類は同時に、そのように教えられるものではなく、「自ら知り・学んでいく」といったいわば”真反対の方向”からも「世界のことを理解する内容」というものを持ってきて、これを「人智」と言ったりする。そして、これが今に繋がる「科学」というものである。
このことから、実は人類にとって「世界のことを理解する内容」として「宗教」と「科学」という二つのものが古くから併存してきて、これが特に相反することなく前者は教えられるものとして、後者は自分で学んでいくものとしてむしろ一致することすら目標とされながら並立してきたものとしてあるのである。

ところが数百年前ほどから、この「自分で学んでいくもの=人智・科学」の方面が非常に発達してくるような時代を迎えはじめ、そこで「教えられてこれまで事実と思ってきた=神智・宗教」における内容と(A)食い違うようなことや、或いは(B)論理・知識水準の向上により後者に対して不自然さ・至らなさを感じるようなことが出てくるという事態が発生してきたのである。
ここで人は、「自分で確かめてきたもの」と「教えられたとされているもの」のどちらを信用するかといえば、「自分自身が確かめて得てきたもの」になりやすいだろうと思うのである。
そこで、近代頃から人々のなかに、「それまで常識的であった宗教の方面を非事実であると思う」ような声があがりはじめ、「宗教への懐疑・忌避」などが生まれてきたのである。
(ただし、宗教の説明するものの特性として、そこまで厳密ではなく喩え話も多く完全に文字通りに受け取るようなものとして存在しているわけではないといったこともあって、科学の説明するものと宗教の説明するものが真っ向から完全に衝突してしまうということを回避する解釈の余地があったりして、この忌避の勢力が全てとなるには現在のところまだ至り切ってはいないといったこともまた、現在の実相なのだろうと思うのである。)
このようにして、宗教というものは、
「矛盾感」によって忌避されている状況にあると言える。
宗教が事実である可能性、使命感

ところが反対に今少し触れたように、「宗教には文字通り以上の解釈の余地がある」ものであるから、科学的に判明してしまった事実との矛盾や不自然さには実際には”何かしらの見方から解消しうる可能性”=「宗教はちゃんと事実であるという可能性」もあるとも言えるのである。
もし事実であるならば、大切にされなくてはならない。
事実であるのに大切にしていないならば、医学を無視すれば病気が治らなかったり不健康になるように、よくない結果になる。
「事実である可能性がある」からには、わたしはこれをそれほど簡単に切り捨てようとは思えないし、もっと言えば「“直観”において事実であるという直観があってしまった」のである。
そこで「事実である可能性」があるからには、この現代に発達した人智科学との間に起こっている”矛盾感”や”不自然さ”を解消して、「すっきりと向き合えるように」なりたいし、或いは「人々においても」事実であるならばそうあることが「人間社会がよくあるためにも極めて重要なことである」ということを意味するものとしてあったのである。
そこで、宗教と科学について、「両方が真実である」という可能性を探ることが関心として在り続けてきたのである。
両方真実=統合的理屈がある

そこで、宗教と科学について両方が真実であるとすると、これが意味することは実はこのようなことになると直感したものである。それは「両者の、“統合的な”理屈がある」ということである。
この二つが”近接したこと”を説明している以上、「全く完全にバラバラなものとして並存するだけで済むことはまず許されていない」。
同じテーマについて、双方に述べていて、それが共に真実であるとするならば、それを可能とする線は「両者に、さらに何らかの統合的理屈が存在する」ということだけなのである。
例えば、英語と日本語という二つの言語があって、これらは完全にバラバラなものではない。ではどうなっているかというと、説明したいことというものが、どちらの言語かではなくさらに抽象的・統合的な事実があって、その下に二つが併存しているというような状況であると一旦喩えておこうか。
宗教と科学が同じようなテーマについて別々の説明をしていて∧共に真実であるとするならば、「その両者の統合的理屈があり、そのもとに矛盾なく併存している」という線になっているはずだということである。
(これを別の言い方をすれば、その両者に「結節点がある」というようなイメージで言ってもいいかもしれない。)
ともかく、「宗教と科学が共に事実である可能性を模索する」とは=「宗教と科学の統合的視座を模索する」ということを意味することになったのである。これが、まず第一の動機である。
さらに諸宗教同士の統合も加わる

もう一点、加えるべきことがある。
それは宗教がまた「一つではなく」、「色々とある」ということである。
そこで、”宗教と科学”というだけではなく、”宗教内”においてまた「宗教A、宗教B、宗教C…」などの複数のものがあって、これについても考えなくてはならないということになる。
「宗教が真実である」として、ここにまた色んな可能性がある。
一つは:ある宗教だけが正しく、後は非事実である。
一つは:複数の宗教が同時に正しい。
という可能性である。
ここで、前者であればある意味では話は簡単なのであるが、わたしの直観は「後者」を支持していた。
(これは日本人であることも大きいかもしれない。日本にはそもそも神仏習合という背景があって、神道と仏教という二つの宗教が既に統合的視座をもって矛盾なく併存してきたという事例があったわけである。理由はともかくとして私は後者を直観として支持した。)
ということは、今の状況としては、
・「宗教と科学が真実である」というだけではなく、
・そもそも「各宗教が真実である」ということも示すことが必要となった。
ということは先程と全く同様の論理によって「”各宗教において”統合的視座がある」ということを意味することになる。
そこで話はさらに難しく、「諸宗教同士の統合的視座があり、そうした宗教と科学の統合的視座がさらにある」ということを示さなくてはならないということであったのである。
そこでこれをひとまとめにしたのが「諸宗教・科学の統合的視座」という言葉の意味なのである。
このような動機で「諸宗教・科学の統合的視座に関する理論」を追求してきたということである。
(2)動機2:天啓(妄想かも?)
そこで、今もっともらしく理由を説明したし、これも事実なのであるが、もう一つの動機はまた全く別の角度に在った。それが、幼児期にあった天啓(…妄想かもしれない)である。
このようなことを思ったのは、大きくなったどこかの時点ではない。
実は5歳頃のある日のことである。

といっても、別に天才児で頭でこれを考えたわけではない。
私ははじめから過去世の感覚が共にあったようなところがあって、幼児期はその境目があやふやなところがあり、あまり幼児らしい幼児ではなかった。
そんなある日、天啓のような出来事があった。
それが、「わたしは二人いる」などの記事で説明してきた出来事である。
幼児らしからぬ幼児で過去世の感覚と共に生きていた幼児であったが、5歳頃のある日。
幼稚園の門前にて、釈尊・キリストが上からスーッと現れて、このようなことを言ってきた。
”われらの説いていることは、一つである。
また同じように、正しい宗教については、それらも実は一つのものである。
次いでこの時代は科学が隆盛しているが、科学も実は根は一つのものである。
これらは全て統合して示すことができ、
その統合的視座の理屈の方面を示すのが汝の使命であり、
汝がこの時代に生まれている意味である。
この時代は、宗教に対する反抗期の時代である。
故に、衆生に納得せしめられるよう、
むしろ汝をこれから誰よりも疑う心に変じる。
自分自身と宗教的なものを誰よりも疑い抜いて、闘い抜いてこい。
その先に、示せ。”
今となっては、もはや妄想だったのではないかと思いもするのであるが、これがわたしにとって長らく強烈な実感としてあって、このために生きてきたものである。
だから”大きくなって頭によって考えた”ことなどではない。
「幼児の時点に埋め込まれてしまった妄想か天啓か」である。
これが主の動機であって、先に述べたものは従の動機であり、
これらが表裏一体としてあってきたというのが動機の全容である。
結末(現状):理論概ね実現する
このような動機から「諸宗教・科学の統合的視座に関する理論」を追求してきたものである。
この格闘の歴史は私の”半生そのもの”であり、ここに全てを振り向けて生きてきた。

その過程は実に苦しく、”頭がはち切れそうな思い”もずっと抱えてきた。
また何より苦しかったのは、「その結論が本当にあるかどうか全くわからない中で」、つまり暗闇の中しかも出口が本当にあるかもわからないような状況で、しかも人生を脇において、「さ迷い続けた」ことである。
そこに、何故かかすかな光明が一筋差し込んでいるような感じで、諦めるに諦められず、しかし見つかるに見つからず、ただこれと向き合ってきたという旅路であった。
そして、それは有難いことに、ある時期から突然「その出口らしきものに近付き」、どうやっても無理なように思われる中に「理屈が突然に通り始め」、ある程度「体系化されて自分が受け入れられるほどの水準に」ついに到達して、一応表に出してみようかと思えるような「理論」として形になってきたものである。概形が出来たのが2021年秋頃のことであった。
それが、わたしの頭の中、或いは大量のメモの上、ある程度進んだ執筆の中にある現状である。
実証の方面
そこで理屈が通りはじめて、それだけでも私は楽になりはじめた思いであったのであるが、この頃同時に今度は「実証の方面」が起こってきた。これは望外と言えば望外、願ってきたことといえば願ってきたことであった。
理論が形になりはじめた頃、ある神秘的な経験をした。
そこで「ここまでよくやった。その褒美として、実証として、これから神秘経験をいくらかさせるから受け取るように」という声なき声がして、実際にその日にも起こされ、それ以来二年ほど特にそうしたことを何度も経験することになった。
それにより“理屈の方面”に加えて、“実証の方面”まで加わるという事態になり、いよいよその理論に対して一定の納得に至ったものであり、表にしてよいかと思えるようにもなったものである。
「諸宗教・科学の統合的視座に関する理論」というものを提示する

このようにして「諸宗教・科学の統合的視座に関する理論」というものを提示するものである。
これにより宗教の事実性が再発見され、精神的軸として再び機能して、人間社会をよりよく在らしめ、人々が幸せでいられる時代が到来することを、心より願うものである。
そこで、本シリーズではこの理論について、
「なるべく平易に」記そうとするものである。
複雑な理論と平易版
そこでこの「理論」を記していくが、ここに二つの方面がある。
一つは:「理論を複雑なまま、そのままに記す方面」である。
一つは:「複雑な理論をなんとか平易にして、わかりやすく伝えようとする方面」である。
この両方をしなくてはならないだろうと思っている。
平易化したもののリスク
そこで前者が「厳密なもの」としてあって、後者はあくまで「仮のもの」である。
つい人々は平易なものを求めるのであるが、残念ながら平易であることは事実であることを意味しないどころか、たびたび”非事実”となるものである。
複雑であることが事実であるものを、なんとか一旦わかりやすくしたとすれば、そこには必ず何かの無理がかかっていて、事実そのものでは無くなってしまうものである。
しかし一方で、その複雑なものを理解するための階段として、或いはそこまで至らなくても人々に広く浸透して役立つためには、そのようなリスクがあっても平易にしたものを用意することもまた大切なことが多い。
ところが実際には平易でリスクあるものを示したことで、事実でないものが広がってしまい、それにより「事実が阻害」されてきたり、或いは「理解力のある人がかえってそれを非事実として切り捨ててしまい事実として知られなくなる」、というジレンマをわたしはあちこちで観察してきた。
そもそも宗教が現在忌避されているのも、実はこのような要素が強く、誰かがわかりやすくしたが事実としては間違ってるものが広く浸透してしまい、それにより現在に難を生じているということが大きいと実感しているものである。
そこで、これまでの二の舞にならないように「平易なものにおけるこのリスク」だけを徹底して事前に伝えておいて、読者にはこのことを心に深く留めておいてもらって読んでいただきたいのである。
そこで…
このようなリスクが大きいことを知っていながら、後者の平易版も記す必要を感じて、これを試みる。
「理論」を平易に記しておこうと思うところであり、なんとか誤魔化し上手に、完全な事実ではなくなってしまう部分もあるが、平易に理解できるような”平易化した内容”を記そうと思う。
これは今後の執筆において、”頻繁に前提とする”ことになるものになるので、ここに帰ってきていただいて「理解の基盤」としていただくということを主旨として記すものである。
平易版を記す
概ね扱う内容
そこで理論を平易化して記す。
まず前提として、そもそものテーマや問題点を紹介することにする。
そもそも今目指しているものは「諸宗教の統合的視座と、それと科学の統合的視座」である。
そこで、一体どういうことを扱い、何を記していくかという大きな方向性を示したい。
それは「世界とは何であり、世界がどのようにあるか」ということである。
そして「生命とは何であり、生命とはどのようにあるものか」。
「人としてどのようにあればよいか」といったことである。
それが何故かというと、まず統合する片面である宗教というものがこのような形式であるからである。これは実は「人間が本質的に希求している」テーマでもあり、それが必然的に一致しているのである。(この詳細についても、理論の内容となってくるので、ここでこれは説明することはしない。)

ただ、概ね扱う内容としては、
・世界とは何であり、世界がどのようにあるか。
・生命とは何であり、生命とはどのようにあるものか。
・人としてどのようにあればよいか。
といったことである。
これについて宗教には宗教の内容があり、科学には科学の内容がある。
それを矛盾のないように統合的視座を追求するということである。
概ねこのようなことである。
平易版の方向性
ここに記していくものは、あくまで平易化を目的とするものであるから、「あらゆることを説明していくという姿勢は放棄する」ことにする。そのようなことをしていれば、結局複雑化し、拾うべき要素が大量となって、厳密な議論をしなくては説明がつかなくなってくるからである。
そこで平易版においては、敢えてそれなりに強引に、少ない情報量で進めていこうと思う。その結論に至った経緯の説明なども極力省いて、ただ淡々と事実を平易化して、説示していくようなものとなると思う。
そのような事情も先に知られておきたい。
<現在想定される概ねの目次>
・世界の根源原理:中・陽陰
(・中陽陰の原理のまとめ)
・霊界と物界ができる
・陽陰の特性のおさらい
・中陽陰によって世界が構成される「宇宙の根源構造」
・いきなり親霊ができる、設計図世界から創られる、物質界が後から創られる、そこには親霊のシナリオがある
・仏=神である
・仏国土の展開、浄土と衆生
・物質界のシナリオ概観(を観察する)
・世界のはじまり
・自由意思について
・霊体の段階、輪廻転生について
・理智情行
・人類史概観
・宗教史
【ゆるく宣言】
この理論シリーズは、内容が重たいので、完全にきまぐれに投稿したい。
執筆しないとと思うとかなりしんどくなってしまうのでお許し願いたい。
「理論シリーズ」は、ゆるゆると~。
【ご喜捨のお願い】
社会の精神的な向上を願って、宗教者の道を歩んでいます。
本物の宗教を徹底して示すべく、厳しくともご喜捨のみで歩んでいます。
もしご縁ありましたら、以下よりご喜捨いただけましたら幸いです。
みなさまに功徳が廻り、社会の精神基盤に寄与しますように。
・メンバーシップでの応援(五百圓~)
※ただし手数料が18%ほどかかり引かれますので、従来通りお振込みにてお施しくださる方はそのままにして頂ければ大変幸いです。その他の方は、以下のメンバーシップからお願いします。
・paypay : raikouji0216
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