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厭な小説、三連発。どうして厭な話なのに惹かれるのか?

嫌いなものほど見えちゃうことってあるのはなんでなんでしょう。ゴキブリが嫌いな人に限って最初にその人が見つけちゃうみたいな。なんかありそう、いそうって思ったときにそっちを見ちゃダメだ、って思うのにやっぱり見ちゃって、そのうえ、見つけちゃうパターン。これって、触っちゃダメそうなものに、やっぱり触っちゃうとか、いろんなパターンがある。(その割に幽霊とかお化けは嫌いなほど見つけやすいとかないような気もするので、ちょっと不思議w)
こういう触っちゃダメみたいなのだと、生理的嫌悪感を感じさせるのは映画なんかはお得意で「スクワーム」のようなミミズ状の虫大量映画なんてその典型だろう。そっちいっちゃダメ系は、ホラーやスプラッタ系の映画のお約束といっていいだろうし。

本で読む厭な話というのでいくと、たとえばミステリーの分野の一つに「イヤミス」というのがあるよね。簡単に言えば、後味が悪く終わっちゃうミステリー、ある種、ホラーなんかと一緒で主要人物にそんなことしちゃダメとかそっちいっちゃダメ〜っ、みたいなのとか、なんでそんなことしちゃうかなとか。最近なら、湊かなえ氏の作品がイヤミスで売れている代表のようにいわれるけれど、個人的にはあまりイヤミスだとは思わない。確かに救われてない感はあるけれど、もっとどうしようもない感がないとなぁ、って思っちゃう。沼田まほかる氏の作品も嫌な感じがするけれど、でも日本のはじっとりした感じがお国柄だけど、海外作品にみられる、もう身も蓋もなさが半端ないというので一歩譲るように感じるけど、どうだろ。
後で紹介する京極夏彦「厭な小説」の文庫版には北原尚彦氏が解説を書いていて、そこで古今東西の厭な小説をいろいろあげていて、厭な話好きにはありがたいのだけど、そこに挙がっている作品をみると、ラブクラフトであったり、ディストピアSFあたりも、もちろんホラーも入ってきてるのでそこまで間口を広げると際限ないような気分にもなる。だから、もっと現実的で厭だなぁと思わせるものに絞り込んで考えられたらということで、今回は厭な小説アンソロジーを紹介します。

「厭な物語」「もっと厭な物語」は国内外の厭な短編小説を集めたアンソロジー、「厭な小説」はきっと厭な小説書かせたら確かに厭なのを書きそうだなぁと確信を持てる京極夏彦氏の短編連作集です。
「厭な物語」はどうやら題名からいっても「厭な小説」からインスパイアされたアンソロジーらしいので、まずは「厭な小説」からいやいやながら見ていきましょうか。
「厭な子供」「厭な老人」「厭な扉」「厭な先祖」「厭な彼女」「厭な家」「厭な小説」の7作品からなっていますが、どれも厭な話です。まぁ、題名でそう言ってるんだから当然ですが。
ひたすら厭なシチュエーションで、そうなったら厭な話になるよなぁという方向にちゃんとネチネチ進んでいきます。その意味では大変期待通りですw

で、この「厭な小説」にインスパイアされたらしい「厭な物語」がさらに厭なんですよw
アガサ・クリスティ、パトリシア・ハイスミス、フランツ・カフカといった有名作家の短編も入っていますが、厭さ具合でいえば、有名無名関係なく、どれも厭です。このアンソロジーの中では、厭な話、として有名なのは、シャーリー・ジャクソンの「くじ」でしょう、早川書房の異色作家短篇集のジャクソンの巻のタイトルにもなっている有名作品です。ある村で長閑な6月の朝に村人全員が集まってきてくじを引く習慣が長年続いている、という話で、展開の長閑でありつつ淡々とした流れが結末の(ある程度予測できるにせよ)厭さを際立たせる傑作です。
アガサ・クリスティの「崖っぷち」に見られる、女性の友人同士(に見えつつ、関係性に上下とヒビがある)の片方が倫理的に正しい行動だと思うことを取り続けたことで起こる破綻であるとか、パトリシア・ハイスミス「すっぽん」での母親が小さい子供を厳しく正しくしつけていると信じている行動から起きる破綻(サキの「スレドニ・ヴァシュター」の現代版というか)とか、どれもオチの厭さがすばらしいうえに、短編小説としても間然としたところのない締まった作品で、さすがミステリーであれだけ傑作を書いた作家の作品と思わせます。でも私が一番厭だなぁと思った作品はなんといってもジョー・R・ランズデールの「ナイト・オブ・ザ・ホラー・ショウ」でした。スティーヴン・キングの作品なんかにも見られるようなアメリカ南部内陸のジメッとした閉鎖的で、そこに暮らしているともうそこから外へ出て行くことはなさそうな、黒人差別も平気であり、のそんな土地でのハイスクールの学生が借りた車に乗っていて遭遇する厭な話です。。。ちょっとしたきっかけから厭なことへ話が曲がっていき、最後、急激に落下するかのような全くまた違う厭なオチがやってくる。もう厭すぎます。(あぁ、ここまで何度「厭」って漢字を書いているのでしょう自分は、、、)
このアンソロジー随一の厭な作品としてオススメです。似た舞台を描いた作品、そしてこちらも身も蓋もない救いのないオチに向かうという意味ではフラナリー・オコナーの「善人はそうはいない」も同様の厭さがありますが、私はランズデールの方が衝撃的でした。
もう一つ、取り上げたいのはソローキンの「シーズンの始まり」。狩猟シーズンの始まりで二人の狩猟官が狩りに出る話です。ごくごく普通の狩猟の合間の会話、そしてこれも最後に急展開するところは、ソローキンの短編によくみられるエロティシズム、スカトロ、残虐性を垣間見せる傑作だと思います。

で、このアンソロジーを読んで、京極夏彦「厭な小説」を振り返ってみると、厭さに違いがあるのがはっきりしてきます。このアンソロジーに入っている厭さは、その土地の風俗、生活、習慣に骨絡みになった何かと繋がった厭さだということです。それに対して、京極夏彦作品のような厭さは、厭だと思わせようと人工的に作られた厭さという違いになります。たしかに厭な話ではあるんだけど、どこからホラーやスプラッタ映画を見てるときに感じる、グロいけどそれって作り物だよねぇとふと正気に返ってしまうような隙があるというか。一方のクリスティ、ランズデール、ソローキンの作品たちは人間の感覚、言動、行動にはそういうところがあるし、その土地の人ならそうしていても不思議ではない、といった自然さの延長に(それがありえないことであっても)厭なことがやってくるわけです。この自然な厭さは厭さとして強力です。もし日本で置き換えるなら、横溝正史の田舎のドロドロした因習に絡め取られたような社会で殺人が起きるようなのが、厭なオチにつながれば、同様の自然な厭さになるかも(でもその因習に満ちた社会自体、日本人には縁遠いからねぇ、、、
そういう点では「厭な物語」がアンソロジーということはあっても、個人的にはこちらに軍配を上げたい

「厭な物語」の続編にあたる「もっと厭な物語」には夏目漱石の「夢十夜 第三夜」小川未明「赤い蝋燭と人魚」といった有名作品も入っており、草野唯雄「皮を剥ぐ」のようなすっごく題名からして厭な予感しかしないすごく厭な作品も収録されているのですが、日本人作品についてはやはり厭さの方向がちょっと違うなぁという実感と、前アンソロジーよりも少しパワーダウンしてるかなぁという残念さを感じてしまいます。でも、ぜひ、このアンソロジーの続きが出て欲しいと思うのです。やっぱり、厭だなぁと思いつつ癖になってしまうんですもの。
これも、厭も厭も好きのうち、ってことなんでしょうかね??w(この記事の中の「厭」の数を誰か数えてくださいw)

(了)

本文はここまでです。
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