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同質性ー>多様性、異質性ー>多様性 - diversity and inclusion-

世間で、Diversity and inclusionという言葉が広まって久しい。そこで、今回は、Diversity inclusionについて、自分なりの意見を。

筆者は、少し変な保育所に行っていた。そこでは、決まった時間に勉強することも、決まった時間に寝ることもない(普通の保育所に行ったことがないため、普通の保育所が何をしているのかしらないのだが)。そこではまず、決められた時間にバス停に行き、バスで公園や山、川に行き、しこたま遊んで、決められた時間にバス停で降りる。雨の日は家にって藍染めをしたり、博物館に行ったりする。ほぼほぼ放し飼いだから、用具から落ちて骨折する子どももいたし、スズメバチに刺された子どももいた。そういった保育所が普通ではないことを知ったのは成人になってからであった。そんな保育所のメッセージのひとつは、だれにも頼らずに自分で自分の責任はとらなければいけないということだったように思う。例えば、遊具で遊んでいて、前の人が遊具から落ちたら、自分はその場所に足を置かないようにしようとか、ススズメバチに刺されたら、今度はどうい所にスズメバチがいるかが分かるからそういう状況にいたときは上の方を注意深く見ておこうとか、だれから直接的に教わることもなく、誰かを観察し、何かを経験する過程で学習していくことだったように思う。

そういう環境にいると、「自分と他人は異なるのだ」ということをだんだん思うようになってくる。なぜなら、誰をどう観察するかは自分の感覚によるし、何かを経験して、どう感じるかも自分によるからだ。そういった観察や経験で得た自分の考えの上に新しい観察や経験で得た自分の考えを乗っけていく。そういった自分の考えや感じたことを大事にして幼少期を過ごした結果として、無意識の内に他人と自分の境界線を引いていたように思う。つまり、「完全に自分の経験に共感する人はいないのだ」という、一種の諦めのようなもの。だから、日本社会という道からそれることを決断してしまったのかもしれない。なぜなら、必ずしも社会は自分の責任を取ってくれないからだ。それは置いておいて、他人と自分の境界線を引いているからと言って、誰とも協力しないということではない。また、他人を思いやらないということではない。あくまで、周りにいる人と自分は異なるのだ、という前提があるということである。

話は変わり、今、カナダにいる。カナダには、多くの移民がいる。それがとどのつまり、カナダがracial mosaicと呼ばれる所以である。そこにあるのは、他人は自分とは異なるという前提であるように思う。そしてそんなracial mosaicの中で必要なのは、相手を共感することよりも、理解しようとする努力であるように思う(0、100の話ではないとは言っておく)。肌の色、宗教、慣習の異なる目の前にいる相手をできるだけ理解し、目の前にいる相手が何を必要としているのかを理解しようとする努力。そんな前提とそんな努力。違いが前提である場合、試されるのは共感よりも理解であるように思う。事実、筆者自身、無神論者のため、宗教信者の友達の話す言葉に共感することは非常に難しいように思うし、相手も共感を求めていないように思う。ただ、最低でも、彼、彼女がどういった世界観で生きているのかを理解し、尊重することはできる。

さて、Diversity and inclusionの話に戻る。今、日本がしようとしているDiversity and inclusionは、同質性を基にしたものであるように思う。つまり、何か同じ性質を持っていると思っているマジョリティの集団がいて、今までは、そのマジョリティの人間が生活しやすいような社会を構築してきたのだが、それでは、マイノリティにいる人たちが恩恵を受けられない。だから、マイノリティの人が今よりも生きやすい世の中にするためにマイノリティの人たちも社会で生きやすい世の中にしていこう。といったもの。マクロレベルで見れば、その方針は正しいように見える。例えば、そういった考えを前提として社会システムを変えたり、新しいポリシーを導入したりすることは、一定の効果を発揮するように思う。

ただ、ミクロレベルではどうか、と考えてみる。例えば、マジョリティだと思っている人たちは、本当にマイノリティの人たちを理解し、尊重できるようになるだろうか、という疑問。おそらく、自分はマジョリティに所属していると思っている人の周りには、自分と同質性を所有していると思っている人がいるような気がする。そうするとそういった人の日常にマイノリティの理解と尊重が入ってくるようには思えない。そうなると、マクロレベルでは同質性を基にした多様性を前提に、ミクロレベルでは、異質性を基にした多様性を前提すべきなのではないかと思ったりする。異質性を基にした多様性とは、「所詮、人間なんて、みんな違う。だから、自分が感じていること、思っていることは、他人に理解はされるかもしれないけれど、完全に共感されることはないだろう」という一種の諦めのようなもののように思う。そういった、異質性を基にした多様性の中で存在するのは、マジョリティとマイノリティという分類ではなく、どれだけ目の前の人間が自分と異質であるかといった、ある種の数直線上におけるプロットである。数直線上のプロットだから、いわゆるバイアスや偏見もゼロにすることはできなくとも、低めることはできるのではないかと思う。

例えば、一人の人間を考えてみる。そこには様々なインターセクションが隠れている。その人はもしかしたら男性で、もしかしたら高校生で、もしかしたらハーフで、もしかしたらスポーツが得意で etc…といったその人の様々なセクションを考えると、所詮、全く同じインターセクションを持っている他人は存在しないように思う。

そもそも、少し前は、ミクロレベルにおいては、多少なりともDiversity and inclusionがあったような気がする。例えば、二世帯住宅である。友達の家に遊びに行った時、あまり話さない友達のおばあちゃんがいた。話したとしても、どうやら目の前にいるおばあちゃんは自分とは違うぞ、ということはわかっていた。しかしながら、そのおばあちゃんの存在は認めていたし、礼儀正しくはしていたように思う。

そう考えると、あくまでミクロレベルで考えると、「所詮人間は異なるのだ」という異質性を前提にした考え方の方が、同調圧力も緩やかになるだろうし、ロジックの存在しない社会的慣習も緩やかになるのではないかと、そんなことを思う師走。

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