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#7 松本に残る戦争の跡
松本市内にも第二次世界大戦時の遺構が残っています。
松本は陸軍歩兵第五十連隊の衛戍地となっていました。信州大学は連隊跡地に建てられており、食料保管庫であった「糧秣庫」が今もその姿を残しています。また、松本市沢村にある「射撃場橋」も旧営舎から射撃場に向かう道にかけられていたことから名がつけられ、今も残っています。
今回は、松本市で設置した戦争遺跡記念碑をもとに松本の戦争について記します。
旧陸軍
#6 松本の七夕祭り
松本地域は七夕行事を月遅れの8月7日に行う風習があります。
これは月遅れの七夕と呼ばれ、ひな祭りも月遅れで行っています。
また、月遅れで行うだけでなく、七夕人形に着物を着せて軒下に飾ったり、「ほうとう」と呼ばれるうどんのような平たい麺にあんこやきなこをまぶして食べたりします。
(現在は行っている家庭は少なくなってきているようです。)
松本城や松本駅の周辺の商店街、浅間温泉などでは月遅れの七夕に
#5 上土町 大正ロマン溢れる城下町
松本城の東側に位置する上土(あげつち)町。
町名は、総堀東門近くの東馬出を造ったときに掘った土を盛ったことに由来します。
ホテル花月の横からこの痕跡を見ることができますが、パッと見は気づかないと思います。(私も案内してもらい知ることができました。)
また、ホテル花月の横を降りた小径は、「外濠小路」と言います。松本城総堀付近を流れる水路に沿っていて、緑町の通りに並行して伸びている小路です。
上土
#4 国宝 旧開智学校
学都松本を象徴する学校建築です。
開智学校は、明治6年5月6日に全久院廃寺を利用して「第二大学区第一番小学開智学校」として開校されました。
現在の校舎は、「擬洋風建築」と呼ばれ、文明開化を象徴する建築で明治時代文明開化政策を進めた筑摩県権令(県知事)・永山盛輝により計画され、松本の大工・立石清重が設計・施工をしました。全久院跡地を利用して明治8年着工、翌9年に新築されました。
工事費は当時約1,
#3 松本城③ 市民に守られた松本城
現在までその姿を残す松本城ですが、市民の手によって守られてきました。
明治時代初期には、寺や城が取り壊されたり売り払われたりしました。松本城のその影響を受け、門や櫓の取り壊し、天守や城門、塀などが売りに出されています。
そんな松本城天守を買い戻すために立ち上がったのが、松本城から東に位置する下横田町の副戸長をしていた市川量造です。量造は松本城を会場とした松本博覧会を開催し、その収益で松本城を買い
#2 松本城➁ 松本城は天守閣だけじゃないPart1
前回に続き、松本城に関する紹介をします。
松本城に限った話ではありませんが、お城というと天守閣を思い浮かべる人は多いと思います。しかし、天守閣だけがお城ではありません。
天守閣をはじめ、堀や門、本丸・二の丸といった部分も含めてお城が構成されています。
今回は松本城を構成するこれらを紹介します。
太鼓門と玄蕃石
太鼓門は松本城天守から東側(松本市役所)にあり、正式には「二の丸御門」と言います。
#1 松本城➀ 松本市の象徴
言わずと知れた松本の象徴となる国宝5城のひとつです。
天守は複合連結式層塔型五重六階で黒漆が塗られた黒く美しいお城です。
現存する五重六階の天守の中では日本最古となります。
築城は、安土桃山時代末期とされ、石川数正・康長父子によるものです。石川数正は、徳川家康の家臣として有名かと思いますが、松本城の築城時には、家康の下から出奔して豊臣秀吉に仕えていました。秀吉の支配下の城は黒塗りのものが多く、松