友は宝だ
なんか久しぶりの友と再開するたびに、この手の内容を思い綴ってきたと思うのですが、やっぱりそう思うのでまた書きます。
緩やかな打ち合わせ
土曜日、7月のオカリナ発表会「わたしとオカリナ 2024」に出演していただくギターの井手寛和氏が、我が家に来訪されました。
当日のスケジュールや演奏予定曲などを決め、楽器の配置なども確認し合ってゆきました。
打ち合わせ自体は割とスムーズに決まっていったので、残った時間は雑談を楽しんだりしていました。そんな雑談の中にも共通の機材に関するお話や、尊敬するアーティストについての話題など、楽しい情報交換をすることができました。
順序とリラックス
話し合いがスムーズに終わった後だと、雑談もよりリラックスしたものになるなあと感じます。
この順番がいざ逆だと、雑談をしていてもこの後の話し合いがちゃんと時間内に終わるだろうかとか、まだ話し合いに入らなくてよいのだろうかなどと、余計なことばかりちらつきリラックスできません。
決め事は先に、後はゆっくり。夏休みの宿題がいつもできなかったえんじろうにしては、これはよくできるようになったと思っています(レベルの低い話で笑われちゃいそうですね)
7月7日は鴨江アートセンターへ、ぜひ聴きにいらしてください。
旧友との再開
そして昨日は、県東部から里帰りされている旧友が遊びに来てくれました。高校生時代にバンドのメンバーに入ってくれたことがきっかけで、以降仲良くしてもらっている人でもあり、現在は鍼灸治療院の院長をやりつつ一家を支えている人。
あっという間の数時間
他人は大抵自分が持っていない体験を持っているものです。それが自分と似た方向の先にあるものであったとすると、憧れになったり尊敬になったり、まあ場合によっては嫉妬になることもあるかもですが、何かしらの思いを抱くものです。自分と違った方向であれば、その全てが新鮮で憧れと尊敬につながると思います。
これは自分だけがという話ではなく、双方に何かしらの思いを発生させるわけです。双方とも同じだけの時間をそれぞれの生き方に費やして(投資して得ている)体験なのだから、何かを感じ取った時点でその体験を価値あるものだと感じた証拠なのだと思います。
とは言っても、せっかくならば気分がワクワクする感情の方に持ってゆきたいですね。
えんじろうにとっては家族を持つこと、家族と支え合うこと、子どもの成長、自力で作り上げた治療院の運営、その中でしかできない体験の全てが貴重で新鮮なものに見えます。だからその表面だけでもたまに会って聞かせてもらえる機会は貴重です。聞かせてくれる友人がいることは貴重です。
同時に同じ時間だけあるえんじろうの体験も、その友人にとっては貴重なものに映るのだろうと思います。それを魅力的に楽しく伝えられていればうれしいですが、ともかくこういう時間はあっという間に流れてゆきますね。
思い出話
やがて話題は共通する過去の体験へ。
当時はそんな事考えなかった気がしますが、全く同じ体験と思考だったなら、こうして過去を振り返って話をすることに意味はないはず。振り返って話したと気に、相手はそういうふうに感じていたんだなどと、驚いたり笑ったり改めて敬意を感じたりする可能性があるから、過去の話題にも花が咲くのでしょうね。
あの頃は良かったという話題にはなりません。それはこういう話ができる今にも「良いなあ」と感じるものがあるからです。
当時も楽しかったし今も楽しい。そんな思いを共有できる友人がいることが幸せです。
自慢できる人
ところで最近のえんじろうの中での「友人」の定義が変わりました。前はどうだったかというと、ただ漠然と知人よりも話がしやすい人という感じではっきりしていませんでした。
えんじろうの中での「友人」は、一般の定義に対して狭いのか判らないのですが、そう呼べる人の数は数えられる程度です。昔国語の教科書で「親友」という話があったような気もしますが、この「親友」と「友人」との区別がよく判らない気もします。
まあとにかく、えんじろうにとっての「友人」は、知人の中でも自慢したくなる生き方をしている人というのが加わりました。
みんなそれぞれ考えて個性的な生き方(楽しみ方)を編み出している人ばかり。だから尊敬できて自慢できると思ってます。
友人がいることに感謝って感じでした。
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