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私の宝物だったはずのモノ

少し前に実家に帰ったときのことです。
自室の机の引き出しの中を調べてみると、そこにはホコリもかぶらずに大切にしまわれていたノートがありました。

懐かしいな

3冊のノートの写真

自分の視力的に書き易いノートというのが、当時ありました。それは罫線が太く色もついているので、弱視の僕でも書いている間に見失うことがほぼないというものでした。
白紙に書くと知らぬ間に曲がってしまう僕にとって、まっすぐに横文字を綴り続けられることは、結構神秘的で素敵な体験なのです。

解剖学と生理学

最初「あんま・マッサージ・指圧師・はり師・灸師」長い(笑)になることを目指していたえんじろうは、基本的なところとして「解剖学」と「生理学」というものを学ぶことになりました。
簡単に捉えてみると、これは人の体の説明書です。勉強に使っていた教科書は盲学校用の拡大文字版なので、10cm近くあったんじゃないかという分厚いものでした。

予習をした後で先生の授業で教わったことと、質問して返ってきた答えも含めて次々とこのノートに記録してきたのです。
おそらくこの頃が一番「勉強」という言葉が似合う行動を取れていたのではないでしょうか?

色分けして書かれたノートの写真

これは解剖学の中でも、呼吸器系の記録のようですね。
はっきり言って教科書の線を引いた部分の丸写しという感じですが、これでも色分けして判りやすくしたつもりなのです。

そんなこんなで1年間、3冊に渡るノートが完成したわけです。

ノートのラストの写真

ノートの一番最後の部分には、喜びあふれる「END」の影付き文字。やりきったことへの喜びが飛び出していますね。

アナログとデジタル

こんな風にアナログで書かれた媒体には、文字情報とは関係ない情報が多分に含まれています。
例えばそれは、眠いさなかに書いた解読不能な文字。目が冴えているときのくっきりと色分けまで施されたわかりやすい文字。
うっかりでお茶をこぼしてしまったシミの跡。そしてそれを綴っていた場所やインクなどの匂いたち。
アナログ情報はその近辺にあるすべてを含む情報です。1と0の間も無限に細かい情報のまま記録されているのです。

勉強する上で本当に必要な情報は、確かにこの場合は文字の順番というだけの話です。文字の微妙なブレもシミの跡も匂いも、ノートの機能には全く不要です。
でもデジタルデータを数年ぶりに紐解いたとして、こういう気持ちにはならないのですよね。
別にどっちが優れているかとか、そういうつまらない話ではないのですが、しみじみそんなことを思いましたというお話です。

3冊のノートと思い出の写真

解剖学より生理学

これ多分何度も書いている話題ですが、えんじろうは物事の現状をただ区分けしてゆく「解剖学」よりも、それらの機能や働きに着目する「生理学」の方が数倍好きでした。だってそこには理由があるでしょ?
その機能を果たすために、解剖学で学んだあの形ができあがったんだなあと思うと、感慨深いものがないですか?それも自分の体にそれが備わっているなんて、ワクワクしか感じられません。

えんじろうは何かに付けて「意味」がほしいんでしょうね。音楽をやる意味、何かを聴いたときになぜ感動したのかとか、そもそも感動ってどうして必要なんだろうとか。自分が存在する意味とかも。
答えを知りたいというよりも、それについて考えていることが心地よいのかもしれません。

変なやつですね。でもそんな変なやつが音楽作って、オカリナ吹いてます。聴いてみてね。

失われしノート

今回ご紹介したのは「解剖学」のノートでしたが、もちろんテストでいつも90店以上を取り続けていた「生理学」も、更に丁寧にノートを書いていたのです。それなのに・・・
そのノートは行方不明。すごく悲しいです。

生理学も含めて他の学問は、PCを使い始めるようになってテキストファイルに記録するようになっていたのです。しかしそれらを記録したフロッピーディスクもまた行方不明。
フロッピーなんて今「なにそれ?」と言われそうですが、そういったデジタルデータであっても、内包こそされなくてもこちらの脳内で「思い出」というデータが付随する形で残るものなのですね。

無駄ではないよ

ところで今は演奏活動をしているえんじろう。
解剖学も生理学も、あはき師の免許すらなんの役にも立たない状態に自分でしているわけですが、これが本当に役に立たないかというと、実はそうでもないのです。

特に「生理学」は物事を考えることが基本。音楽も同じように出来事に対して機能を考えるようになる癖がついていて、そのおかげで新たなことを学習するときに、大いに救われているのです。新しい機材の機能や使い方を覚えるときにも当然役立っています。
何よりも健康面を考えたり、病気にかかった時に現在の体の中の状況を想像して勇気を出したりできるのも、今までと違うコロナワクチンに疑問を感じられたりしたのも、生理学のおかげだと思います。

他のこともそうなんだと思うのですが、かつて学んだ一見今やっていることと関係なさそうなことであっても、アプローチの仕方や考え方などの基本部分に影響を与えていたり、応用を利かせたりして役に立つ場面もあるのだと思います。

きっと、全部が宝物ってことですね。

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