そのお月謝は「消費」ですか?「投資」ですか? 商業主義が蝕んだ日本の教育観
教育移住、海外留学、インターナショナルスクール、習いごと…
人々の生活が厳しいなか、視線が熱い「教育とその効果のコストパフォーマンス」のお話。
今日はこの「教育コスパ論」に対して
習いごと運営主視点で、耳の痛いかもしれない話をしたいと思います。
「こういう教育プログラムをやりたい」と友達に語った時、よく言われます。
「理念」だから課金が難しい。
概念型だから難しそう。
言われる度に、なんで?どういう意味?と思っていました。
友達は某大学経営学部出身。私とは畑違いすぎて、いつもビジネスについての壁打ち相手としておしゃべりしているリスペクトできる友人です。だから、ふむふむと聞く。
でも、その友達が逆に「アート×レッジョエミリア型の資格をとる」と連絡してきたんです。
概念型じゃん!
突っ込みました。笑
友だちは納得しつつ「でも子どものアート作品持って帰れるからお金を払うはず」と。
なるほど、『何を対価とするかに、どう反応するかをコントロールしないと、客の質が上がらんよ』と突っ込みつつ
そのとき、やっと理解できたのですが
概念型じゃないもの、とは
「このお金を払えば、こういうスキルがつく、これが得られる」と言えるもの。対価がわかりやすいもの。
お金を払っていけば、泳げるようになる=スイミングスクール。
お金を払っていけば、ピアノで何曲か弾けるようになり、音楽性が身に付く=音楽教室。
お金を払えば何が利になるのかがわかりやすいものが非概念型。
そして、これまでの時代は非概念型の能力が今までの「習いごと」宣伝の謳い文句だっただろうし、親としてもわかりやすい対価だったかもしれません。
今日のトピックは
その非概念型の対価の視点で“しか”、レッスンやプログラム内容を見てない大人について深掘りします。
この対価を得るためのお金の考え方、教育の分野ではしっかり見直されないといけないなと感じています。
そもそも教育ってお金のかかるものです。
そして、お金以上に、時間がかかるものです。
これをやったから、このように育ったね、という方程式はみんなに等しく当てはまることはありません。
個人の性格、経験、思考、日々の過ごし方、他のものとのバランス、関係性、環境など様々な要素がしっかり滲み出ます。
そういう意味では、お金の使い方として
教育は「投資」です。
日々の生活のために食材を買う、服を買うという「消費」でもないし、もちろん浪費でもない。
贅沢品か、と言われればもしかしたら、そうかもしれません。
このTHE 習いごとマガジンを始める時に私はこんなことを書きました。
高度経済成長期がもたらした日本の繁栄は、消費によって土台づくりされ、それは人々の価値観をつくってきました。
いいものをより安く。
この発想は日本の人々の思想に染み渡りました。
でも、今となっては海外の市場からすると、あり得ないくらいの「いいもの」がどんでもなく安く売られている日本。
→価値のバグりが、国際的に見た経済力の低下を生んでいます。
そして海外から買われる国、安い国、になっています。
一方、国内の社会の情勢は、30年以上、日本人の賃金上昇率は鈍化。物価高により生活が相対的に苦しくなっていく始末。
内外でチグハグな価値経済状況が起こっているのが、現在の日本です。
そんな時代に、教育を値切って、次世代にいい人材が育つでしょうか?
そんなことは絶対にあり得ません。
教育者たちは疲弊します。
教育を値切った時、例えば日本のインターナショナルスクールに優秀な外国人の先生は来ません。
→だって国際的に賃金が低すぎますから。
教育を値切った時、志ある専門家は人に教えるよりも自分が研鑽する方を選びます。
→なぜなら、学びの楽しさと価値を一番、本人たちがわかっているからです。
学校に期待ができないから、と親が力を強めると、親子関係が捩れます。
一見、問題ない関係性なように見えても、親って一生利害関係がついて回るもの。かつ、親の視野と価値観は子どもに受け継がれます。どのくらいの広さを見て、子を育てたか。
→保護者の声が大きくなる他方で「毒親」が叫ばれる始末。
強すぎる関係性は、いつかの拍子で良くも悪くも様変わりもするもんです。
人が育つ・生きる過程において、いろんな居場所があるということ、いろんな存在が周りにいるということはとても大切なこと。
家庭の外での人間関係で多少の擦れも経験しながら、人は徳を積むし、知恵もつく。
教育は消費ではありません。
もしかすると、親御さんの中には「消費」の感覚で関わってくる人も多いかもしれません。が
でも、負けないで。笑
この辺の価値観を一新して覆さない限り、次世代育成が全体として良い方向に転化することはないと思っています。
金融の世界の投資においても、一時的な値下がりがあろうとも、長い目でプラスを見込んで積み立てるはずです。
教育においても「投資の感覚」はとても大切。
その考えをもちつつ、教育ビジネスの経営者自身が
丁寧にプログラムを作っていくことで、上げられる成果や成長って大きいと思います。
そして、それを丁寧に伝えていく必要があります。
同時に、投資者自身が、この課題を俯瞰し、お金を払っている立場に甘んじない思考力と謙遜とリスペクトの表明も大事だと思っています。
お金にはエネルギーがのるから。
百歩譲って、最終的に安いと思ってようが、高いと思ってようが
その値段に対する考えや価値観を、教育者に表明することのリスクもよく知っていた方がいいと思います。
その上で、価格について思うことがあるなら話した方がいい。
耳の痛い話ですね。
でも、この根底の「価値」の部分を見直さないと人材育成の質が上がることはないと思っています。
そもそもこの市場は熱意ある人たちばかりの市場なはずです。
育成に志をもつ人、子どもの成長を思う人。
わたしが記者だった時代に同期に言われました、先生は「精神労働」と。
私はこのフレーズが印象的でよく覚えていて、先生をしてるパートナーにも何度も伝えます。教える仕事が苦しいならやめなさいと何度も言っています。
でも、本人は子どもの成長を見るのが楽しくてやめないんです。好きなんですよね。
でもそこに依拠したらダメ。
学校の先生たちがお休みが多い、疲弊するのも、やっぱりこの教育界特有の価値観に原因があると思います。
志ある人たちの場だからこそ、精神論に乗っかったうやむやが多いし、甘えも多い。
だから、こういうことを発信すると決めました。
教育投資に対する大きな考えや価値観が根こそぎ変わらないと、もう全体が良くならない。
富めるものだけが、疲弊しない社会で投資し、循環し続ける。
国の価値観として、教育に対する投資のボトムアップが起きない限り、なかなか発展・繁栄は難しい時代になっていると思います。
私もここまで思考を整理するのに何年も時間がかかってしまいました。
心を込めてやってたら見えない、「価値と教育の関係」について。
習いごと・教育ビジネスを応援するためのマガジンは、このエントリでスタートします。
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