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未来が分からない時代、学校で子どもたちに「自信」を授けたいー白旗和也(日本体育大学教授)×佐藤壮二郎(フラッグフットボール・筑波大学SA)対談 【前編】

2019年2月、「学校という船で、未来への航海に出よう」というビジョンを掲げ、小学校の体育・音楽の課題解決と発展を目指す新プロジェクト「ENGINE」が始動しました。  

今回はENGINEのプロジェクトメンバーである日本体育大学・白旗教授と日本フラッグフットボール協会設立委員で筑波大学スポーツアドミニストレーターも務める佐藤壮二郎氏が「これからの学校教育」「学校における体育の可能性」について語った対談の様子を計3回に分けてお届けします!

未来がどうなるかわからない時代に、重要な事。


(佐藤)
これからの時代において小学校の役割は、益々重要になっていくと思います。まず、2020年度からは小学校の新学習指導要領が全面実施されますが、いままでとの違いはどのような点がありますか?    

(白旗)
いままで大事にしてきたのは、「(教えた事が)きちんと分かる・出来る」といったことで、教師が効率良く指導をして、子どもたちが「いかに沢山身につけることが出来たか」がかなり重要な要素でした。

しかし、今の時代は「何かを知る」といった点で考えれば、調べればすぐに分かることが沢山あります。この先に世の中がどう変化していくのか全く分からない時代には、「どういうふうになっても、生きていける力」が大切です。そのためには、知っただけでなく、理解し、その知識を使えるか重要です。

かつては学生時代に(知識や技能を)蓄え、社会に出ていく流れでしたが、これからは自分で問題を解決して生きていくことこそが重要であり、これが新・学習指導要領でも示されている育成を目指す「資質・能力の3つの柱」というところにも集約されているかと思います。

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白旗和也(しらはた・かずや)/ENGINEプロデューサー(体育)
日本体育大学教授。1963年生まれ。小学校教諭、教育委員会、文部科学省スポーツ青少年局教科調査官、国立教育政策研究所教育課程調査官を経て、平成25年4月より現職。文部科学省では「小学校学習指導要領解説体育編」「幼児期運動指針」の作成に携わる。現在は、日本体育大学スポーツプロモーションオフィス・オフィスディレクター、JICA(青年海外協力隊)技術顧問(体育・スポーツ部門)、日本フラッグフットボール協会理事、世田谷区体力向上・健康推進委員長、日本体育科教育学会理事なども務める。
元々は高校野球の監督を志していたが、大学在学中に早期の体育教育の重要性に気付き、小学校教諭に。現在は運動が得意でなかった教師でも自信を持って体育を教えられるようになる事を目指し、「小学校体育における教師効力感に関する研究」をテーマに研究を進める傍ら、日々、大学の職務の合間を縫って、全国で研究会等の講師を務める。また、ここ数年は、アフリカにおける体育普及に取り組んでいる。


(佐藤) 
私もいままで小学校や中学校の現場をいろいろと見てきたのですが、中学生にもなると既に「私は○○が得意・苦手」「私は○○が好き・嫌い」「自分は○○な人間だから」など、(基本的な人格形成が)固まり始めてきている。

そういう意味では小学校、特に低学年は人格形成そのものや、思考の仕方、自己肯定感にまで影響を与えられる極めて重要な年齢期だと考えています。そのような「年齢的な重要性」に関してはどうでしょうか?

 
(白旗)
小学校6年間での変化はとても大きいです。1年生は幼稚園から上がったばかりですが、6年生になれば先生より背の大きい子どももいて、大きな違いがあります。この6年間で学んだ事が人生にまで影響すると思います。

ですから教育という点では、(小学校での学びは)「人が生きていく為の基盤づくり」だと思います。そこで大事なのは「生き方を学ぶこと」です。
例えば「人との関わり方」を学んでいく。世の中に出る前に、同じ世代の子どもたちの小さな集団(社会)の中で、どう関わっていけば自分の力を発揮できるのか、自分の力を高められるか、ということ。

また、身近なものに関心を持ったり、何か問題を解決することで、「思考力」という点でもベースをつくる時期だと思っています。もちろん「読み書きそろばん」など、どの教科においてもいちばんベースになる事を学んだり、身につけたりしていくことも重要です。

それに加えて、私としていちばん重要だと思うのは「自信」です。「自信を付けていくこと」が小学校教育、特に低学年では重要だと思っています。

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佐藤壮二郎(さとう・そうじろう)/ENGINE チーフ・プロデューサー
(公財)日本フラッグフットボール協会の設立委員/事務局長を経て、筑波大学アスレチックデパートメントスポーツアドミニストレーター。現在は大学におけるスポーツ改革、小学校教材の流通改革に参画するなど、社会起業家として活動を広げている。

幼少期に肺活量が弱く、持久力を前提とした部活動に参加出来なかった経験から「運動の苦手な子どもたちにもスポーツで成功体験を届けよう」と2008年IT商社を退職し「日本フラッグフットボール協会」を立ち上げ。公益財団法人化や新規事業開発と共に大規模な小学校向けのパートナーシップを次々と実現、全国6,000校以上の小学校の授業実践に貢献した。2020年から新学習指導要領本編にフラッグフットボールが登場する。「次世代のためにスポーツ本来の価値を解放しよう」が活動のテーマ。

子どもたち一人一人の「プラスの変化」を大切にできる教育を。

(佐藤)
今までの小学校のイメージだと、幼稚園の時の「何をやっても褒めてもらえる」環境から、小学校に入ると「規律」であったり、学力的な「勉強」がどんどん始まっていきます。

その中で「自信を育てる」ことに向け、教科の特性と自信の関係に関してはいかがでしょうか?

(白旗)
幼児の時は、「遊び」が教育そのものなので、厳密な到達目標はありません。いっぱい遊んだり・楽しむこと自体が褒められる対象です。

それに対して小学校に入り、「教科」になってくると「目指すもの(=到達目標)」があり、特に日本人は真面目な気質なので、到達できていないものに目が行って、「まだあれが出来ていない」「ここはもっと頑張れるでしょ」という、どちらかというとマイナスの発想が強くなってしまいます。

やはり小学校のうちは、「現時点での子どもたち一人一人の力」をベースにして、それぞれがプラスに変化したところを大事にしてあげられるような教育をしていくべきではないか、と感じています。

(佐藤)
そう考えると授業のコーディネートの仕方も、時代に合わせて変化していくべきですね。

(白旗)
これから日本は人口も減少していきますし、一人一人の役割も変わっていくと思います。少子高齢化が極端に進んでいく中で、日本は今から農業国にも戻れないし、資源が豊富にある訳でもないですし、「どう生きていくかを模索していける人々」が国を引っ張っていけると思います。

今までのように、「(決められたレールの中で)頑張れば結果が出る」といったふうにはならないので、そういう事に対応できる人を育てていけないですよね。

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子どもの成長はそれぞれ違う。「みんな一緒に」は難しい。

(佐藤)
以前も別の講演で話をしてすごく興味を持たれた話題で、「みんなで同じ事を・同じタイミングで・同じペースでやろう」という画一的な教育というのは、いままでの日本の学校教育の大きな特徴だと思うのですが、そうすると「他者と比べて出来るか・出来ないか」というのが、自己肯定感や自信に影響を与えると思います。

一つ例を出すと、水泳で、水に顔をつけるのも嫌だった子が、授業を通して10メートル泳げるようになった時、それはその子にとっては凄い成長だと思うんですね。それを目いっぱい褒めてあげたい、そしてその子をより成長させてあげたいと思う一方で、となりのレーンでは1キロくらい泳げる子がいる。おそらくその子はスイミングクラブに通っていたり、保護者が教えたり、という背景が違う訳ですが、10メートル泳げた子どもは、他者比較の中で「私は泳げない」「私は出来ない」となり、自己肯定感が低くなったり、自信を失ってしまう。

でも本来人間というのはそれぞれの能力があるので、他者との比較で自分を決めつけずに、自分なりの成長を価値づけしていくのは、これからの体育の中ですごく重要だと思うのです。

日本の学校教育の画一性と個々の成長というかなり大きなテーマについて、いまどのようにお考えですか?今後はどうあるべきかでしょうか?

(白旗)
そうですね。とても重要な課題だなと思っています。私は幼稚園にもよく行くのですが、幼稚園の場合、月齢によって発育や発達に大きな差があり、同じ年長(5~6歳)であっても、「一緒には出来ない」ということが前提になります。  

ところが小学校1年生になった途端にそれが消えてしまうというのは、早生まれの子どもたちにはキツい状況です。実際に小学校の高学年でも、早生まれの子たちは小学校時代にやっていたスポーツを離れて、中学校では違うスポーツをやる傾向が高いといった研究データもあります。同じ事を同じペースでやるのは現実的には難しいのです。 

また成長期も違いますね。小学校の時に背の小さかった子が、高校生になって会うとすごく大きくなっていることもありますし、人によって「伸びる時期」も違うので、本来そういうことも含めて考えるべきだと思いますね。

最終的には人生ってみなそれぞれで、これは誰かに否定されるものではないと思うのですが、それぞれ自立して生きて行くために必要な土台をきちんとつくっていきましょう、というのが本来の日本の教育だと思います。

ですので「みんなが確実におさえなければいけないこと」と「個で見ていかなければいけないこと」を一緒くたにしてしまうのは、教育では危険なのかなと感じます。

現時点でこのラインに届いてないと「出来ない」という状況を生んでしまう。特に体育の場合は、それがはっきり見えてしまいますので、「足が遅い」とか「○○が出来ない」となってしまうので、個の状況を勘案して教育するというのは非常に重要な要素だと思います。

(佐藤)
(他教科で)テストの点数の場合は、周りに知られずに隠すことも出来るし、人に見られることはあまり無いので、まだ自分なりの世界をつくっていくことができると思うのですが、体育のかけっこや逆上がり、水泳などをやる場合には目に見えて「出来る・出来ない」が分かってしまう。だからこそ、体育にはより前向きなケアが重要だと思うのです。

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「好きになる」から、体力が高まる。

(佐藤)
アメリカでは12歳以下ともいわれますが、「スポーツを好きになる」とか「人との関わりが好きになる」というのは、若年層の時にその成功体験があるかないかで決まってしまう、というのは常々言われてきた事だと思います。

一方で、体育だと体力テストなどによって、自分が「出来ない」と思ってしまえば、若年層のいちばん大切な時期に、「自分はこれが苦手だ」という負の意識が植え付けられてしまうと思います。

「好きになる」という視点と、体力テストなどの「数値や成績」という視点は、学校教育の中で、どう共存していくべきでしょうか?

(白旗)
そもそも体力というのはどれくらいあれば良いのか、という明確な答えはありません。スポーツ選手に会ってみると身体も大きいですし、数値も高いです。ただ、一般の人がスポーツ選手のような体力が必要なのか、といえば、そんなことは全くありません。

あくまで生きる為に必要な体力というのは、人によって違いますので、その子にとって必要な体力を身につけるという考え方が必要だと思います。「平均値」で考えるから、「全部の数値を上げなければいけない」となってしまうのです。

体力は体格とも相関があり、早生まれの小柄な子が「君は平均より低いから」と言われても、まだ体力が育つ時期になっていないということもあります。体力というのは、あんまり小学生が意識すべきものではない、と私は思っています。やはり好きになって運動に取り組んだ結果、体力が高まっていくというのが望ましいです。体育の授業は、全ての人が学ぶ場です。ここで、いかに子供にとって魅力のある授業を展開できるかが、その後の運動とのかかわりに大きく影響します。

昭和60年代など昔の子どもが体力が高かったというのは、(学校外も含めて)おそらく運動を好きになる機会が豊富だったからだとも言えると思います。今下がってきているいちばんの要因はテレビゲームなどの影響により、外にいって遊ばなくなったということが大きいと思います。体力というのは個人のものであり、それぞれ必要な体力、という視点で考えていく必要があるかなと思っています。

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学校だから出来ること。現代における学校の価値。

(佐藤)
その視点で見ると現在は遊びも豊富になり、都市部では習い事も多様になっています。さらに今は小学生でもインターネットでハーバード大学の授業を聞けるような時代ですから、ありとあらゆる情報がボーダーレスになってきている社会構造をみると、「そもそも学校において得られる学びとは何か」など、社会学的に向き合う時だと思うんですね。

そのような中で、公立小学校においては、「多様な子どもたちに出会う」というのがあります。例えば、トップクラスのスイミングクラブに通えば、水泳が得意な子どもにしか出会えないし、また、子どもたちがテレビゲームをやる瞬間は自分とウマの合う子どもたちだけと遊んでいるはずなのです。 

もちろんクラスメイトは同じ地域の同じ年齢の子どもですので、全ての面において「多様なのか」という点では議論の余地があります。ただ、学校という存在によって、多様な子どもたちと出会い、自己に気づき、様々なことを乗り越えて何かを皆で実現していく力が身に付く。

こういう事がまさに生きる力の育成であり、これからの学校に益々求められると同時に、既に学校に備わっている極めて大きな価値だと思います。

(白旗)
私は学生時代スイミングクラブでアルバイトをしていたのですが、この時は自分の受け持ったクラスの子の級が上がると、時給も上がったので、一人一人の泳力を高めることしかやっていませんでした。教員になってからも、それがしばらく抜けなくて、後から思うと非常にマズい水泳の授業をしていたなと思います。

学校というのは社会勉強の練習場だと思います。そして教育というのが最終的に目指すところは「生きる力」を身につけ、その先に自立することだと思います。一人一人が自立していく為には、世の中を知ること。そして、自分を知ること。可能性を見つけること。その為に学校がある。

学校には多様な子どもがいますので、いろんな事が起きますから、小さいケンカもある。やはり人の関わりが生まれると、良いことばかりではなく、問題も起きる。ただ、それを解決していくことが大事だと思います。その中で自分がなにが出来るか、どのようにしていけばよいのか。また乗り越えていくために情報を知るということもとても大切で、それが知識や技能ということだと思います。

学校で起きるトラブルはいつも同じではなくて、毎回変わる。そうすると使う情報も変わってきたり、解決方法も変わってきたりします。学校は小集団としての「小さな社会」で学ぶ場所と言えますし、少なくとも公立の小学校は多様性を学べるという価値があると、私も思っています。

(佐藤)
我々大人も社会で生きていても摩擦の連続で、いま様々な仕事や活動の場でも本当にいろんな人がいますし、いろんな事が起こるので、小学校で乗り越えていくことと非常に近い。つまり学校での学びと社会で生きていく力というのはイコールだと思います。

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外部の力を借りながら、子どもたちに「自信」を届けたい。

(佐藤)
このような背景から少しずつ核心に向かいたいと思いますが、後半の話題としては、沢山のことが学校任せになっている、もう少し踏み込んで言うと社会全体が学校に押し付けてしまっていることが沢山あると思います。

より良い教育活動を展開するには、もっと社会全体が支援をすべきですが、学校活動を支援するサービスが充実していないと思うのです。

学校の先生方の労働時間の問題は枚挙に暇がありませんし、学校や行政に予算が不足していてできないという話は山ほど聞きます。変われと言いながら学校に特段サポートは提供されず、学校や先生方は今までのことだけでも精一杯、結果として小学校は今も昔ながらのままという状態になっていると感じています。

学校と学校外が隔離されてしまっているという視点はどう思いますか?

(白旗)
これは一長一短あると思うのですが、学校教育の世界は割と先輩の先生たちから後輩にいろんな文化が受け継がれながら進んできた。教育には不易と流行があり、不易の部分が日本の教育を支えてきたと思います。

一方で、「それが正しい」ということになると、「変われない」という現実もあります。例えば、小学校では、帰りの会で連絡帳を開いて書いたりですとか、私が小学生の頃から50年近く変わっていないこともあります。ただ働き方改革などを考えても、同じ物事でも実施の方法を変えていったり、「教員のやるべきこと・教員でなくても出来ること、もしくは教員じゃないから出来ること」を仕分けをして、総合力で進めていかなければならないと思います。

冒頭にもお伝えしましたが、いまの子どもたちは先行きが不透明の中で生きていかなければならないので、今まで以上に幅広く学ぶ事が必要になってきます。そうすると今でさえ先生の業務量は限界に近い状況なので、今やっていることでも先生がやらなくても済む部分もあるかもしれませんし、もし外部の力があれば、もっと充実して出来ることもあると思います。

教育は「守られた世界」でないといけないと思いつつも、そこをより守る為、そして日本の将来の為に、いろんな力を結集していくべきと考えています。

(佐藤)
その通りですね。続いてここからは「体育」について議論していきましょう。

(中編へ続く)


文=櫻井義孝、写真=栗原論




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