15.上達論―基本を基本から検討する(甲野善紀・方条遼雨)
世の哲学、思索の多くは「身体」が伴いません。しかし「身体感」なき哲学は、脳の表面を上滑りします。ただの「思考ゲーム」になってしまうのです。
「まず基本を身につけよう」この言葉に呪縛されて、どれだけの才能が芽を吹かずに枯れていったか。
2020年9月26日、今日、なんだか退屈になりそうだったので久しぶりに六本木の文喫へ行った。職場で本を読みそうな人を適当に誘い向かったが、天気予報なんて見ずに出た。地下鉄メトロ六本木を出たら雨がざあざあと降っており、タイミング悪いなあと感じていた。
どんな分野でも構わないとして、何かに対してもっとうまくなりたいとか、上達したいという気持ちがある。ただしぼく自身に反響するのは「基本」という呪縛であり、「ほんとうはそうではないのでは?」という思いがありつつも、何が違うのかをはっきりと認められないままであった。
物事の習得も、これとよく似ています。下塗りから何度も全体を薄く重ねてゆくのです。細かい模様や仕上げは最後です。赤ちゃんは、習得において自然とこれをやっています。
「大きく学んで、後から細部を整える」
ぼくたちは幼子、子どものころにあったものを少しずつ失ってゆく。構造的なものを習得していくのと同時に、素直さや想像力というものを失う。答えをゴールとし、そこから外れていくフローは間違いになり、その工程で育った人はますます他の人の間違いを許せなくなってくる。そんなふうに時間的経過を見たときに、ぼくらは「許す」という難しさに直面することになる。
さまざまな経験をすると、自分の中にフィルターが必ず出来上がる。それは軽度な「好き・嫌い」から重度の「差別」に至るまでさまざまである。そのフィルターは年数を重ねるほどに分厚く、頑丈になり、簡単には取り外せなくなる。そのフィルターは、目の前にあるものを変形、あるいは消滅させてしまうような解釈を生んでおり、自分を支えるための正当化はそのフィルターを無意識の底まで、気づけないほどまでに沈めてしまう。その解釈というフィルターを捨てればよいのだけれど、多くの人はあまりにも「捨てる」練習が足りない。
「上達」とは、「それまでの自分」を更新する作業です。「更新」とは「上書き」する事です。そして上書きとは、不要なデータを「消去」し、「塗り替える」という事です。「捨てる」のが上手くできないのは、この「消去」というプロセスに、大きな問題が生じてしまっているのです。
この「捨てる」ということの難しさが(本来難しいことではないにも拘わらず)、難しいとされているのは先ほどの「解釈」というのがここでも邪魔になっているということである。
新しいものを習得しようとしたときに、ぼくたちは先入観をもってそれに取り組んでしまう。いや、本当はみんな分かっている程度のはずなのに、先入観で自ら邪魔してしまう。何におびえているのか、わかった振りや、逆説をつけて正しいようなことを自分に言い聞かせることで、それ自体をわかったことにしてしまう。Twitterでの口論と何ら違いはないとも言える。解釈するということが悪いのではない、解釈とは想像力でもあり、想像力というのはオブジェクト同士を連関させる橋にもなりうる。ただ、その解釈というものを作動させるのがあまりにも早すぎる。「わかった気になる」のが早い。
これは、なかなかに難しそうですが、本来は単純な事です。
「目の前で起きた事」を「目の前で起きた事」のまま受け入れれば良いだけだからです。赤ちゃんでもできているこんな事を、大人はなぜ難しくしているのか。
大人は大抵「余計なこと」しているからです。「余計なこと」は「解釈」の他にも沢山あります。「きっと」や「どうせ」もその一つです。
では、ぼくらがなにかを習得したり、上達する中でそのフィルターを外せば終わりかと言うと、まだまだである。ぼくたちの生活は常に「実践・実戦」であり、そこに過去と同じ状況というのは無い。しかし、ぼくらは過去からのシチュエーションを身体に回帰させ、違うものであるにもかかわらず、同じものとして扱ってしまう。ここにもぼくたちの身体のエラーがある。
これ自体にはいろんな見方が出来るわけだが、異なる事象に対して同じ出力をするということを「阻害」と見ることができる。ぼくたちには、認めようが認めまいが癖がある。癖と言うのはそれまでの習慣であるが、なぜ癖が生じるかと言えば「その癖がコスト安であるから」である。基本時に、普段と異なる行動を起こすことには大きなリソースがかかる。目の前に現れた困難や、達成しなければいけないような「目的・目標」があらわれたとき、いとも簡単に癖が現出する。つまり、「目的・目標」というようなゴールは、いとも簡単に誘導され得るということであり、またそのような癖を「抜く」というのは当人の技術を下げる行為であるゆえ、当然の演算であるともいえる。ここに上達のミソがある。
ところで、先ほど「そのまま理解する」ということを解釈が妨げているという話をした。実践的にはそれをそのままクリアするのは非常に難しい。たとえば、とんでもなく嫌いな人間に対して「これはいけない、好きになってみよう」と考えたとする。当然、これは失敗する。
嫌いであるものを好きになる、ひいてはその前の好きでも嫌いでもない状態に至るためにはステップが必要である。好きや嫌いという極端な観念を持っているときには、そのステップと言うものが見えず、飛びつく・突き放すというような短絡的な発想に至りやすい。そこでぼくたちは「小さな積み重ね」「できることからやる」という行動が必要になってくる。
そこで重要になるのが、「出来る事を重ねる」という行為です。つまり、「難易度」を落とすのです。日常における小さな「揺らぎ」「不快」が生じるような場面で、心穏やかに過ごしてみる所から始めます。
たとえば、テレビに自分のちょっと嫌いなタレントさんが現れた時。食事中に、箸を手から滑らせテーブルに落とした時。その程度で良いのです。今まで「少し心が揺らいだ場面」「少し波立つ場面」、こういった、「揺らぎ」「波立ち」をまず「ゼロ」に持っていってみる。そうすると、あなたにとっての「ゼロ」が底上げされます。
これは自身のことだけではなく、部下などにも通ずる考え方である。たいていの上司というのは、部下を育てられない(というふうにぼくは今まで見てきた)。仕事上での部下の失敗は、100%上司の責任である。その上司の失敗は100%経営者の責任である。失敗を許さない上司は、再び失敗を許さない部下を育てる。部下を育てている上司は、失敗を認めステップを踏ませる(そういうバリエーションがある)。人を許せる上司は、人を許せる部下を育てやすい。そういう、自由さに身を委ねさせることは、上司部下という間柄にも、自分で自分を上達させるという枠組みでも必要なことである。
ありきたりになってしまうが、基本形の連続から発展は生まれない。先日『創造性はどこからくるか』でも書いたが、基本の連続から自然発生的に創造性を発揮させるというのはもはや化石のような考え方で、想像力や創造性を神の産物として崇めているに過ぎない。
どのように自由を確保するか、身体でなくいかに環境を捉えるか、そしてどちらばかりに寄るのではなく「距離感」に注目することができるのか、という点が上達には必要なようである。
誰かを許さないということは、許されない基準を自分が敷いているだけである。自分を社会という広さに拡大し、あたかも自分を社会規範として振りかざす正義は、他罰的なひとを見つけるスキャニングにしかならない。自分を許し、弛緩し、むずかしすぎることをやらないという行為は、いずれ自分以外へも影響を持っていくのだろう。
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